2024年1月1日月曜日

 コラム354 <白井晟一建築研究所での想い出 再び> 


 私が白井晟一研究所に居た10年間のうち、前半は通称「高山アトリエ」と呼ばれている木造平屋のアトリエの方に居た。白井晟一の設計には違いないのだが、それがどうして「高山アトリエ」と呼ばれるようになったかのいきさつについては、私は詳しく知らない。元は高山さんという画家の住居兼アトリエとして建てられたものだったらしいことまでは確かだ。事の事情を聞いたこともあるように思うが、関心が無かったから私の記憶に留(とど)まってはいない。


 そのアトリエは、切妻屋根がシンメトリーに両翼を広げたシンプルでのびやかな美しいシルエットの建物であった。全体の1/3程が住居になっていて、そこに白井晟一の長男彪介さん家族が住み、残りの広間と納戸のようなところを我々がアトリエとして使っていたのである。目白通りの一本裏手の道に面していたこともあって古い時計がゆったりと時を刻み、空間そのものの性質と相俟(あいま)って静寂であった。前庭にはめずらしく、かなり大きくなったオリーブの樹が生えていた。


 彪介さんの長男・原太君がまだ幼かったから、ドア一枚で通じているアトリエにしばしば入ってきて、彪介さんに〝仕事中には入ってきちゃいけません〟とおしかりを受けていたのが懐かしい。そんなことを言われてもわきまえの出来る年令でもなかったので、夫人が出掛けた時などは、ちょこちょこ出てくる。

 ある日彪介さんが〝ちょっと寝かせてきます〟と言って原太君を連れて自宅に入って行った。しばらくしたら、アレッ?原太君が一人でアトリエに入ってきた。

  〝お父さんはどうしたの?〟

  〝お父さんはおねんね・・・〟

子を寝かせつけている内に、自分が寝ついてしまったらしい。こんなユーモラスな出来事も懐かしく想い出される。

 

 彪介さんは情の篤(あつ)い人であったから皆に好かれた。原太君は〝おっちゃん〟〝おっちゃん〟と言って私によく懐(なつ)いてくれた。先日、訪ねてきてくれて約40年振りに再会したが、好青年に成長していた。彪介さんはかなり以前に父親の白井晟一とも私とも同じ脳出血で倒れ、長く闘病生活を続けながら仕事も続けられたようだが、その事実をかなりの年数が経ってから人づてに知ったので、不義理この上ないことをしたと悔やんでいる。その後亡くなられたことを原太君から聞いた。


 彪介夫人は長い看病生活で体調を崩されたようで、それでも電話では明るい声で〝おっちゃん⁉〟と呼んでくれたのが涙が出るほどうれしかった。色々な事情が重なって研究所とはしばらく疎遠になっていたからである。