2020年2月24日月曜日


コラム153 <人心の原則>

 駅前でタクシーに乗ると、運転手の応対ぶりでその街の人心の平均値が判るという。この話はまんざら当てにならぬ話ではない。仕事柄あちこちに出掛けることの多い私もそう思うからである。
 二年程前に記したメモ書きがひょいと出てきた。こちらはタクシーではなく、バスの運転手である。
 東上線(有楽町線)志木駅前に停車中だったバスに女性客が入ってきて、ベテラン運転手に尋ねている。
 〝このバス○○へ行きますか?〟
 〝行かない……〟
 〝何番に乗ればいいでしょうか?〟
 〝国際興業さんの方だから知らねぇなぁ……〟
 何だろう、この運転手! という空気が車内に漂った。その時の車体ナンバーは「所沢200 18-03 下南畑 行」 夕方 6:20発。私は10分程して市場坂上というバス停で降りたが、その間、自動音声の案内以外一言もしゃべらず、バス内に異様な雰囲気が漂い続けた。
 社内で何か気分の悪いことでもあったのか知らないが、バス運転手の資格は運転技術だけではない。もっと親切にすりゃあ、乗客も自分も気分がいいだろうに……
 あの調子では終点まで一言もしゃべらない状態で行ったことだろう。親切は親切を生み、粗暴は粗暴を生む――これは人心の原則である。
 マスクをしていたから最大限好意的に解釈すれば風邪でも引いて、ウィルスを撒き散らさないように との配慮だったのかもしれない。が、その可能性は無いな。
 客が下車するときも、一言もなく、ありがとうの気配も見せず、じっと前方を見据えたままだ。
 これはちょっと危険な心理状態だと思われた。ベテラン運転手だから、こういう不届者であっても社内で注意する人がいないのかもしれない。
 仕事の分野を問わず、こういう傾向を帯びやすいからこそ余計に、ベテランという者は常に自省の心を忘れずに居なければならないものと思う。ストレスの多い時代に、これ以上ストレスを撒き散らすこともあるまいに。


2020年2月17日月曜日


コラム152 <心の弱ってる人達へ>

 子馬の如く
   
   ヒザが折れても 立ち上がろ

       人間だもの 心折れても 立ち上がろ



2020年2月10日月曜日


コラム151 <漢字を大切にしよう>

 誰々さんは私の人生のカガミだ、などという時のカガミは「鑑」である。それを最近「鏡」と書いて手紙をくれた人がいた。何となく気分的には判るが、自分の姿を他人に写してどうしようというのだろう。比較してみてどうなるというものでもない。
 私は改めて辞書を引いてみたが、やはり手本、模範、いましめの意ならば「鑑」であって、「鏡」ではない。
それにしても最近の日本人は本当に漢字が読めなくなったし、書けなくなった。パソコンやスマートフォンの影響が大きいのだろう。


20年程前のことだったろうか。書家の古田悠々子さんや造形家の松岡信夫さん以下、78人でマイクロバスをチャーターして韓国の古い地方集落や仏寺、博物館巡りをしたことがあった。
旅の最後の日の夜、ソウルで食事した時のことが忘れられない。
町を歩いていたら、80才と思しき老人に店の前で呼び止められた。
 〝アナタガタニホンジンデスカ?〟 そして〝ドウゾ、ドウゾ〟と二階に通された。
その時の会話が忘れられないのである。我々のテーブルの脇にずっと座って
 〝アナタガタ日本人デ一番尊敬シテイル人ダレデスカ?〟
 〝……………〟 誰も答えられない。
 〝ジャア コノ百年間デモイイ。一番尊敬シテイル人誰デスカ?〟
 〝……………〟 誰も答えられない。
最後にはこの老人が強い調子で怒り出した。
 〝アナタガタ、日本人ノコト、モットベンキョウシナキャダメ‼
 日本人ニハエライ人タクサンイル!
 『死線を超えて』を書いた賀川豊彦の名も挙げたし、内村鑑三の全集を講談社から取り寄せて苦労して読んだなどというところを聞くとクリスチャンだったかもしれない。その後、話は日本語のことに及んだ。韓国はハングル文字(私にはよく判らないが、彼に言わせると日本語がカタカナ文字だけになったようなものらしい)にして文章表現の巾も深さも失ったこと、その点、日本語はひらがなあり、漢字あり、カタカナありですばらしいよ!〝ニホン語ヲモット大事ニシナキャダメ!〟
 これを聞いていた近くのテーブルの30代と思しきスーツ姿の会社員風の人達が日本で何年か働いたことがあるらしく〝ニホンハソンナニイイトコバカリジャナイヨ……〟と日本批判を始めた。この老人は即座に
 〝アナタガタ、日本ノコトヨクワカッテナイ‼〟
と大声で言い返したのである。
 あの夜のことは生涯忘れないだろう。
 日本人であることの自覚も深めなければならないこと、そして日本語というものをもっと大切に考えなければならないことも身にしみた夜であった。
漢字に興味を持つと、その語意については勿論のこと、字の成り立ちまで興味が拡がってなかなかおもしろい。
 読めないから、書けないからひらがな……ではなく、読めなければ調べればいい、書けなければ調べればいいではないか。
 このままの傾向をそのままにしては、漢字の読めない、書けない、知らない日本人にどんどん接近していくに違いない。

2020年2月3日月曜日


コラム150 <いい言葉を拾う>

先日、TV

〝笑顔は副作用のない薬〟

という言葉を拾った。
いい言葉だ。
 身体をいためたり、不自由になったりすれば、どうしても思いが重く落ち込んで、場合によっては将来への希望を失って、心が折れそうになる。表情が暗くなり、笑顔が失われるのも無理はない。
上記の言葉は、今はパラリンピックのカヌー選手として活躍している娘が、かつて大怪我をしてヒザから下を切断せざるを得なくなった時に贈った、母親の言葉だという。それは彼女が立ち直るきっかけとなったという。

ひとつの言葉が一人の人生を救う。
右腕を切断したヴァイオリニストも知っている。私が入院している間にも右ヒザから下を切断した30代と思しき青年がいた。テーブルこそ違ったが毎食時すれ違う度に我々はあいさつを交わした。
〝オハヨウ!〟
〝辛いけど、今日も元気でがんばろうね!〟
〝オヤスミナサイ!〟
 彼は、苦しみと将来への不安の中にあるのがありありと判ったが、それでも松葉杖をつきながら元気な声であいさつを返してくれた。少しの笑みを浮かべながら……。
 えらいと思った。彼の心の中が察せられて、実にえらいと思った。




2020年1月27日月曜日


コラム149



         咀嚼せぬ 物知り顔は するまいぞ


      

2020年1月20日月曜日


コラム148<駅前広場の一羽の鳩よ>

パチクリと 
何のつらさも見せないで
片足立ちの 鳩の辛さよ

2020年1月13日月曜日


コラム147<都会の悲しみ>

ミミズクの大きな眼には写ったろう

都市の非情と
都会の悲しみ

 
どこから飛んできたものか、都内のあちらこちらで一羽のミミズクが目撃されていた。ミミズクはこんな大さわぎになるとは思わなかっただろうし、人間達の捕獲作戦に合おうとは夢にも思わなかったに違いない。
 数日後、このミミズクがやっと発見された。それも死んだ姿で……。
 都会のことだ。エサにありつけなかったのかと思ったが、そうではなくて、車にはねられたことが死因だったらしい。

 20代の頃に住んでいた高島平団地でのことが想い出された。駅前の広い道路を渡ろうとしてひかれたのであろう。一匹の犬がはじき飛ばされ、横たわったまま、後続の車に次々と ベシャッ、ベシャッ と音を立てながらひきつぶされていく姿を……。ごうごうたる車の流れの脇で、私は何もできずに呆然と立ちつくしていた。

 住まい塾の活動をスタートした数年後から、年の半分位を信州八ヶ岳での山中生活が始まった。山中ではたびたび鹿に遭遇する。特に多いのが霧の深い夜か、冬の雪道だ。ほとんどが510頭で群れている。道路にいる時もあれば、何頭も続いて横切っていく場合もある。車を停めて、窓を開け、〝車に気を付けるんだよ!〟などと声をかけても鹿はあまり人間をこわがらない性格のようで、かわいい顔でこちらを じーっと、見つめていたりする。

 ある日の夜、小淵沢のインターを出て、鉢巻道路に入った所で、車にはねられたのであろう、鹿がぐったり横たわっていた。咄嗟に数十年前の、あの犬のことが頭をよぎった。私は脇に車を停め、これ以上ひきつぶされないように、せいいっぱいの力で道路脇の草むらまで引きずり、横たえた。はねられて間もなかったのであろう。体はまだあたたかく、しなやかだった。そう大きな鹿ではなかったが思いの外、重かった。
 以来、冬の夜道では時速50キロ以下で走行するのを守り通している。鹿の群れを発見してもブレーキが間に合うように……。

 ミミズクさわぎで、過去の二つの事件が想い出されたのである。あのミミズクだって大さわぎせずに、飛びたいように、行きたい方に行かせておけば、今頃どこか気に入った森にでもおさまって生きていられたかもしれないのに……。
 現代は悲しい時代だ。