2025年8月4日月曜日

 コラム429 <卑怯者(ひきょう)者!その②> 


 卑怯者!などと言われると屈辱的に胸にひびいたものだ。だから、日本人の特に男達の多くはそんな風に呼ばれない生き方をどこかで心がけてきたのではなかったか。だが今は卑怯者!などと言う言葉そのものが死語になっていて、仮にそう呼ばれるようなことがあっても恥に通じた感じ方はしないのではないか。直接対決したS社やN社との《住まい塾》の商標問題にしても、法文にさえ違反していなければ正義、しかも私なら恥と感じる事もせいいっぱい自分達に都合のいいように拡大解釈して、〝日本は法治国家なんだから、法に違反しなければいいではないか〟とさえ平然と言う。

 私は〝あなた方は法を守っているつもりのようだが、法文を守っているだけのことであって、私に言わせればあなた方は法文奴隷だ!〟とさえ言い返したものだ。裁判もその傾向が強い。宇宙に存在する法は正しくても、法文とは人間が作ったもので、しかも都合のいいように拡大解釈するような法文のどこに完全な正義があるか!と私は言いたい。

 

 そういう意味で今想い浮かんだ〝国破れて山河あり〟とかつては言ったが、今は〝国破れて惨禍あり〟だ。精神の状況において特にそれが言えるのである。






 『武士道』(新渡戸稲造)『代表的日本人』(内村鑑三)は元々英語で著されたものである。後に日本語訳となったが。なぜそうなったかは、特別の宗教観を持たぬ日本人は何を精神的規範として生きているのかという諸外国人の疑念に対して応えようとして懸命に書いたものだろう。そういう日本人がいたことを我々は忘れてはならないのではないか。