2026年2月23日月曜日

 コラム458   <百聞は一見に如かず> 



 出典は「漢書」とあるから大昔から言われ続けてきた言葉なのだろう。確かにこれもひとつの真理である。


 だが、大方百聞しても悟れぬ者は一見しても悟れないものだ。それが私のこれまでの経験上の実感である。現代に近づけば近づく程この現象はひどい。

 感性に張り無く、緊張感が崩れているからである。おごれる者──これもそのひとつである。素直であり、謙虚であり、常に自分の中に不足を感じている者──そんな鋭敏な感性をもってして初めて


  〝百聞は一見に如かず〟


なのである。百聞しても一見してもボケーッとたるんでいるようでは何をかいわんやである。


 たしかに百聞しても捉えられなかった真理を一見して初めて捉えられることもあるだろう。しかしこの意味を取り違えてはならない。如かずとは及ばぬという意味であって、百聞しても悟れぬ者が一見したら悟れる、あるいは百聞しても理解せぬ者が、一見すれば理解できるようになるということではない。百聞には百聞なりの意味と価値があり、一見はそういう者に対してさらに意味を加えるものだろうと思う。


 百聞に意味を見い出せぬ者は一見しても百見しても一聞にも及ばぬのである。いずれにせよ鋭敏な感性が底辺に無ければ、百聞も百見も意味を為さないのである。

 この鋭敏な感性とは天性のもの、ということもあるが、日常の生活の中でこそ磨かれていくものである。




 




2026年2月16日月曜日

 コラム457 <人間とはかくも成長しないもの> 



   吾十五にして学に志し

   三十にして立ち

   四十にして惑わず

   五十にして天命を知り

   六十にして耳順(したが)い

   七十にして心の欲する所に従えども、矩を踰(こ)えず

                   孔子(前551~479)


   40,50はハナタレ小僧

   60,70は働き盛り

   80,90になって迎えが来たら、100まで待て、と追い返す

                  渋沢栄一(1840~1931)


 この二人の間には2000年以上の時が流れた。その先にも、後にも、数多(あまた)の賢人達が遺した言葉が、書物が数え切れない程ある。

 

 現代の我々は学ぼうと思えばそれを学び得たはずである。しかし、人間とは成長の糧(かて)がいか程あっても成長し得ないものだなあ、と上記二つの言葉を読んで思った。しかも現代は長きに亘って続いてきた書物文化が衰退はおろか崩壊の危機にすらある。本は売れず、読まれず、街から本屋さんは次々と消え、出版社は生き残りをかけ喘(あえ)いでいる。情報の量だけは間便に入手できるようになり、人間そのものは益々幼児化している。長寿にはなったが、なんと寂しいことではないか。







2026年2月9日月曜日

 コラム456  <真に思いやることの、むずかしさ> 



  
これの困難さはその人の人間性の芯に直結する問題だからである。真実であるかどうか、本物であるかどうかの問題は、身体ごとそうなのかという問題と同義である。それは長年私を悩まし続けた。

 しかしそうなってこそ、真の人間性を帯びた人間といえるのである。生涯の課題であり、幾生涯をかけての永遠の課題といっていいものかもしれない。

 






2026年2月2日月曜日

 コラム455 <人間っていいなあと思う時> 


 

   美しい音楽に出会う時

   美しい器に出会う時

   心の美しい真実の人に出会う時


 こういう時私は人間に生まれてよかった、とつくづく思う。


   美を愛する人に出会う時

   人間であることを求め続けている人に出会う時


 私は人間であって、よかったと思う。


 それが最近そのような真っ当な人間に出合うことが極端に少なくなった。

 その点私は恵まれていた。


   心やさしき人々に多く出会った。

   人間であることの意味を深めている人々

   ひたむきに何かを求めて生きている人々にも

   多く出会った。

 

 私の人生に喜びと彩りを与えてくれた。小さいことでいい。私と出会った人に何がしか彩りを添えられる人間になってから、この世を去りたいものだ。