2024年8月26日月曜日

 コラム388 <気力>


 本を読むにも気力がいる。身体が辛過ぎたり、苦し過ぎたりすると、この読書が出来なくなる。こうなると文章を書くのは一層困難となる。


 2024年7月3日夜10時、山小屋の広間で激しく転倒し、頭、腰、肘等を床にしこたま打った。頭がバウンドした程だった。

 6年前の視床部脳出血の後遺症で左半身にマヒが残った。リハビリの名セラピスト達のおかげで順調に恢復を見せたが、途中コロナワクチンの三回の接種の副作用が逆追い打ちをかけた。マヒ側全体の筋肉がひきつり、それに伴う各部関節の痛みが加わって、現在は椅子に腰掛けているにも30分が限界だ。坐骨神経痛のように、お尻から腰にかけて苦しくなり、耐え難くなるからだ。


 軽い読書位なら30分ごとに室内をゆっくり歩いて苦しさを緩(ゆる)めることは可能だが、長く続けてきた私のブログ・・・特に清書の段階となると、文に神経が集中するせいか、2~3時間は座ったままになっていることが多い。

 気が付いた時には足腰が立たない。はずみをつけて椅子から、やっと立ち上がった時には脚がシビレていて、おまけに床に置いてあった3ヵ月分の薬の入ったダンボールに足がつっかかって、前のめりに転倒したのだった。


 これまで数十回は転倒しているだろう。幼い頃からやってきたスキーでの転倒経験が活きているのやら、高校時代にやっていた柔道の受け身が咄嗟に出るものやら、室内での転倒は身体を半回転させながら左マヒ側を下に、頭・腰・肘等を打つのである。今回もそうであった。

 3月下旬の本部での転倒から到頭(とうとう)硬膜下血腫(頭蓋骨内出血)が起きた。〝頭の中が固いと骨まで固くなるんですかねえ・・・〟などと医師と冗談を交わしていた矢先であった。

 その出血がやっと止まって血液が吸収されつつあったところに、再度の頭の強打である。


 一週間後、諏訪中央病院で再検査(CT)を受けた。新しい出血こそ見られなかったが、左側のマヒ症状がさらに強烈になっているところをみると、血腫は見られなくとも、何か脳内に異常が起きているようだ。腰骨と左肘・肩・脇腹・肋骨(ろっこつ)の苦しみは打撲のせいで骨そのものには特に異常はなさそうだが、出血5回を含めて、満身創痍(そうい)状態だ。

 病院へは親しくしている近隣の吉井さんが、連れ合いと一緒に車で連れて行ってくれた。色んな人に迷惑のかけ通しだ。

 生身の人間はランボーのような訳にはいかない。






2024年8月19日月曜日

 コラム387 <政治不信③> 


 人間崩壊とさえ思わせられる事件が世界各地で起きている。そんな中我が国にも重要課題が山積している。

 ・食糧自給率をどのように高めていくのか

 ・環境破壊問題

 ・水問題

 ・エネルギー問題

 ・原発の危険性/長年具体化されないままの廃棄物処理問題

 ・原発ムラと呼ばれる闇社会では国家予算の巨額の無駄ガネが蠢(うごめ)いている。

 ・毎年度末の予算消化という名の巨額の予算浪費

 ・天下り問題だって大きな問題だ。

必要な人材が有効に登用されるのならばまだしも、

  慣例化した官僚達の地位を利用した形式天下りは、

国税の浪費、国民の納める税の無駄使いである。

 ・教育の世界は金に美しいか?

教育というより、年々経済事業の性格を強めていないか?

その他挙げればきりが無い。だが何といっても第一には人間の根幹たる心のあり様を民族としてどのような方向に育んでいこうとしているのか、という問題だ。学歴社会・経済社会一辺倒のようなありさまでいいのか?


 秋田県男鹿半島の基部にあった潟湖(せきこ)八郎潟。琵琶湖に次ぐ我が国2番目の広さを誇った良漁場が大規模機械化農業の名の元に国家プロジェクトとしてその8割が埋め立てられた。私が中学か高校生の頃ではなかったかと思う。それが定着安定する間もなく、国は減反政策に転じた。漁民の仕事を奪い、その補償金、埋立工事に巨額の投資をし、入植者を募り、あげくの果ての結末は多くの土地成金を生んだに過ぎなかった。この問題が大きく騒がれなかったのは口封じに有効な程巨額の金が投入されからに違いない。これなど貧困な政策のほんの一例である。このプロジェクトの最初から最後までに注がれた費用の総額は、いくらになったものだろうか。検証と反省がその後の事業に役立っていればいいのだが、その気配さえ無い。





 


2024年8月12日月曜日

 コラム386 <政治不信②> 


 私の故郷秋田県の県庁所在地秋田市は行く度に感じるが、寂(さび)れる一方である。都市型デパートの進出により地元老舗百貨店は無くなり、いい建物、木造の優れた料亭などもあったが、共に姿を消した。時代の流れと云えばそれまでだが、県や市の夢のある将来像を描けない政治家達にも責任がある。


 秋田市民となって60年になる私の姉は言う。


 〝知事も市長も悪いことなんにもしないかわりに、いいこともな~んにもしないもの。

  あれなば県も町もよくなる訳無いべた〟


蓋(けだ)し名言である。悪いことをしなければよくなるかと云えばそれは違う。よくするには、よいことをしなければならないからである。


 今ウラ金問題に端を発した政治資金規制法改正案が騒々しいが、与党、野党で5万だの10万だの、いやいや20万だのと言い合っていて、あれには呆(あき)れる。

 政治家も政党も年々小さなことをつつき合い、ちまちまとなっていく。虚偽問題の裏にかくれた巨偽問題が政治家達には見えないのだろうか。大き過ぎて目に余るのだろうか。きっと近過ぎて見えないのだろう。


 日本をどんな国にしていきたいのか、どんな民族に育んでいきたいのか、今の政治家達に、釣られて国民にまでも大局の志・夢・希望に対する大志が見失われた。元々そんなものは無かったのか?





2024年8月5日月曜日

 コラム385 <えらぶらないところがすごい?> 


 八ヶ岳の方のベテランヘルパーさんが言った。


 〝シュウイチさんて、えらぶらないところがすごいわよねぇ・・・〟


(介護関係の仕事にたずさわる人は名前で呼ぶ人が多いのは認知症になると姓で呼んでも反応しなくなる人が多くなるからだそうである)

 だから私は応えた。


 〝えらぶる必要なんかないんだよ。

  ほんとうにえらいんだから・・・〟

 〝ホントだ!〟


と言って二人で笑いあった。介護の中にも笑いあり。