2024年7月29日月曜日

 コラム384 <平和な朝食> 


 横長のガラス窓越しに、一面萌黄色の若葉が広がる。その間を小さな白い蝶がヒラヒラと舞っている。長閑(のどか)な光景だ。その姿を眺めながら台所のカウンターで朝食を摂る。

 朝食といっても右手しか使えないから毎朝だいたいパン食だ。片手しか使えない不自由さもそれなりに慣れてくるものだとはいうものの、不自由きわまりないことに変わりはない。


 今年の八ヶ岳はどちらかといえば空梅雨模様だ。シトシト雨に時々晴れ間がのぞき、飛んでいる蝶も気持がよさそうだ。

 今朝は小雨の中、六羽の蝶が飛び交っている。ヤマボウシの白い花が満開だというのに止まって蜜を吸う訳でもなし、時々葉に止まって休憩する位で、ただただヒラヒラと緑と白い花の間を飛んでいるだけだ。気持がいいだろうな・・・と思わせられるのは、何といっても萌黄色の若葉の美しさと、それに冴(さ)えわたる声で森を満たしているミソサザイの囀りだ。蝶達もさぞかし平和な気分だろう。

 今春のミソサザイの囀りは殊の外艶やかだ。昨年と同じ鳥ならば、一年間の発声練習の努力が実ったというものか。昨晩はホトトギスが鳴き、朝にはウグイスが鳴く。山のウグイスは街のウグイスよりはるかに歌が上手だ。谷渡りもしばしば聞こえてくる。


 みんな懸命に平和だというのに、欲を掻いた人間の世界だけが美しさをを失っていく。

















2024年7月22日月曜日

 コラム383 <束の間の太陽> 


 梅雨の日々。束の間、太陽が樹間から差し込んできた。久々に日光浴を、とデッキにキャンバス地の椅子を置き、エサ台にエサを入れてからしばらく日向(ひなた)ぼっこをした。

 エサ台に間もなくキジバトがやってきた。少し離れたところからウグイスの声が聞こえてくる。トーンの高いのと低いのの二羽。

 ウグイスが鳴く度に私はまねをする。


  〝ホ―ッ、ホケキョ‼〟


都会のウグイスと違ってこの辺のウグイスの声はいたってつややかだ。都会のウグイスは暑さや光化学スモッグやらで喉(のど)がいがらっぽくなっているのだろう。


  〝ほーっ、ほけきょう!〟


 私のまねは都会のウグイスどころではない。鳴く度にまねるが、舌も声帯も多少マヒしているから、どうもうまくまねられない。


     〝ホ―ッ、ホケキョ‼〟

     〝ほーっ、ほけきょう〟(キレガ悪い)

     〝ホ―ッ、ホケキョ‼〟

     〝ほーっ、ほけきょう〟(これじゃ法華経の読経じゃないか!)


 エサ台の上でしばしついばむのを止めて、こっちをじーっと眺めていたキジバト君の表情は

     

〝あなた うまくないねぇ〟


と言っているようだった。首をかしげながらの目がそう語っていた。

 スミマセン、もっと練習しておきますから・・・。(7月3日記す)









2024年7月15日月曜日

 コラム382 <今春最大のショック 続き> 


 急須を持たない世代となって久しいことは知っている。客間の和室の座卓に、ペットボトルを、それも茶杔にのせてうやうやしく出されたこともあった。定年退職後のご夫妻であったから決して若者ではなかった。この時も〝ハァ~すでにこんな時代になっているんだ!〟と驚きを禁じ得なかった。

 翌々日見えたもう一人のヘルパーさんにも上記の話を交えながらソバチョコ・ソメツケの話をした。〝いやぁ、ボクも知りません・・・〟これ以上話し続けると私はショック死しそうだったから、この話はこの日で止めた。


 これでは手工芸品の店や、骨董・古美術屋さんが全く売れないと悲鳴を上げるのも当然だ。手工芸家を育てようとがんばってきた東京の老舗『瑞玉(すいぎょく)』の女性オーナーがかつて溜息まじりに言っていたのを想い出した。〝これから工芸家たちはどうやって生きていくんでしょう・・・〟


 これは30代の若者であったが、新茶を戴いたので持っていくか?と聞いたら、いやいやいいです、と言う。

 

 〝お茶好きじゃないの?〟

 〝いや、急須ないですから・・・〟

 〝お茶飲まないの?〟

 〝いつもペットボトルですよ。私の世代で急須持っているやつなんてめったにいないと思いますよ〟


緑茶もウーロン茶もペットボトル茶が本来の味だと思われたら茶葉そのものも気の毒なら、うまい茶葉を育てようと頑張っている生産者も気の毒というものだ。これを万事急須という。

 TVコマーシャルに惑わされずに、うまい茶をしっかり入れて、気に入った器でちゃんと飲もうよ。日本人なんだから・・・。








2024年7月8日月曜日

 コラム381 <今春最大のショック> 

 

  多くの人の支えと助けを受けながら、日々の生活が何とかできている。感謝することばかりだが、自分がお返しできないだけにこれもまた辛いことだ。  日曜日を除く毎夕、四人のヘルパーさんが交代で食事をつくりに来てくれる。以下4月のある日のヘルパーさんとの会話である。

 〝牛乳飲みたいんだけど・・・〟

 〝器はどれにしましょうか?〟

 〝私の食器が並んでいる棚に大きめのソバチョコがあるでしょう?〟

 〝・・・ソバチョコって何ですか?〟

 〝蕎麦猪口(ソバチョコ)知らないの?

  長く日本人でいながら蕎麦は随分食べているはずなのに・・・。

  盛り蕎麦を食べる時に使うつけ汁の入れもの・・・。

  そこに磁器の染め付けの器があるでしょ〟

 〝染め付けって何ですか?〟


 10代か20代の若者ならともかく、40~50代のヘルパーさんだから驚いたのである。知らなくて当然といったような平然とした表情をしているから、おそらく世界で最も豊かな食器文化を持っている日本でも事態はこんなところにまで来ているのか!と思われて一層ショックだったのである。陶器と磁器の違い、白磁に染め付けとはこういうものだ、と不自由な身体を台所に運んで「講義」を始めた。この話を翌日見えた別のヘルパーさんに話したら、


 ”ソバチョコって何ですか?私も知らない〟


これには私も腰を抜かしそうになった。それまでの腰痛がさらにひどくなった。





2024年7月1日月曜日

 コラム380 <人間とは> 


 〝人間とは理性の動物である、と云うが正しくは人間は歴(れっき)とした感情の動物である。

  他の動物との違いは、その感情を理性によってコントロールできるか否かにある〟


 たしか『人間とは何か』といった類のタイトルの本に書いてあったことである。合点して読んだ記憶がある。逆に云えば理性によって感情をコントロールできない人間はより動物に近いと言うことができる。


 岸田首相の国会答弁や海外での会見などを聞いていて気がついたことがある。いつ聞いても話がなぜ胸に迫らないのか、心を打たないのかの謎が解けた。それは理性が勝ち過ぎて感情に抑揚が無いせいだ・・・と。淡々とした受け身一方では理性的とは言われても、聞いていて心動かされるものなく、さっぱりおもしろくない。


  怒るべき時にはもっと怒れ!

  うれしい時にはもっとうれしがれ!

  哀しい時にはもっと哀しめ!


くだらない質問にはバカヤロ~ッ!のひとつも言ってやれ!と思って私はいつも聞いているが、パッション不足なんだな。それを理性的と勘違いしている。


 瀬戸内寂聴さんの日めくりカレンダーの一日には、こうある。


 〝笑顔はその人にとって一番輝いている素敵な顔です。

  幸せは笑顔に寄ってきます〟


 一面の真理だとは思うが、しかしケラケラ・ゲラゲラのバカ笑い、ヘラヘラ・ニタニタ・ニタッのうすら笑いはこの笑顔の範疇に入らない。