コラム316 <愛情その②>
人の苦しみが判らないのは愛情の深さが足りないせいだ、と思ってきた。しかし本当にその人の苦しみがその人と同じように判り得たら、おそらく生きてはいられないだろう。医師など到底やっていられないことになる。だから判り得ないように神様がつくって下さっているのだと、最近では思うようになった。
その人の身になって苦しみを推しはかることが出来るようになる、辛さを察することができるようになること ─── ここにこそ人間としての愛情の深まりの課題があるのだと思うようになった。愛情の深まりは、その人の辛さや心に寄り添うことができるようになること ─── そうなれば真(まこと)の心をもって祈ることもできるようになるだろう。それが病んでいる人の励みにもなり、なぐさめにもなる。
身代わりになって、その人の苦しみを分かち持つことができるのは、神さまか、仏さまに近くなってはじめてできること ─── 通常の人間にはできないことだ。
愛情深くなるという人間としての最終最後の課題は以上のように考えて取り組んでいけばいいのではないかと思う。同情深くなること、察することができるようになることもりっぱに愛情深くなった証のひとつだと思って間違いない。
あの車椅子のおばあさんが滲(にじ)ませた涙はその返礼であったのかもしれない。自分の苦しみの一端を察してくれる人がいて、うれしかったのだろう。苦しみの涙ではなく、ほっこりとした涙であった。私は潤(うる)んだ眼を見てそう感じた。
消灯近くうす暗くなりかけた廊下を自分の部屋に向かいながら、あのおばあさんの心の内が思われて涙が滲んだ。別れ際、〝ここに来て話せる人がいて、よかった・・・〟とぽつりと言ったからである。