コラム317 <愛情その③>
この地上に生を受ける目的は、人格の完成即ち愛情深い人間に一歩でも二歩でも近づいてゆくことにあると教えられてきた。だが多くの本を読み、己の経験を通じ、他者の行いに学びながら75年生きてきても、この課題はたやすいことではない。
入院していると病を抱えたさまざまな人に出会う。ふとしたきっかけで心が通じ合うようになると、傍(はた)からでは判り得ない痛み、苦しみ、辛さを固有に抱えていることが判ってくる。それに内面の苦しみまで含めたら、到底推し量ることさえできないところまで行くだろう。ドクターも言う。患者の苦しみは本当のところ医師である我々にも判らない、と。
今朝、退院間近の人が廊下で退院前の測定を行っていた。入院時からどれだけリハビリの成果が出たかを目安とするものらしく、それがデータとして残されていく。〝普通のスピードで!〟〝極力速足で〟〝一定の時間で何メートル歩けるか〟等々。
その中に歩き方がいたってスムーズな人がいた。
〝歩き方がいいですね。自然に見えますよ。〟と近くのトレーニング用ベッドに腰掛けて見ていた私は声をかけた。
〝ほめられたのは初めてですよ。〟と言う。
〝でも苦しいんですよ・・・。首の神経がやられたから、あちこちの関節と筋肉が引きつって辛いんだ。〟と言う。
〝私と似てますね。筋肉の引きつれと関節の痛みが連動して終日続く。〟
〝この苦しみは他人には判らないでしょうね・・・。〟
その日から同病相哀れむという訳でもないが、少しの親近感をもって言葉を交わすようになった。
私と同じ視床部出血の後遺症に苦しんでいる人が、院内には他に二人居るという。私は強烈なシビレから筋肉の引きつれ、それが関節の痛みに通じて苦しんでいるのだが、他の一人は目の玉を針の先で突つかれているようだと言い、もう一人は背中を鋭利な刃物で切られているような痛みが続いているらしい。「視床痛」という言葉があるように同じ部位をやられても血がどのように飛び散ったかによって後遺症の出方は皆違う。おまけに視床という部位はいろいろな神経がまとまって通っているところらしいから余計厄介なのだ。