2022年11月14日月曜日

 コラム295 <人が生きる、とは何か②>


 過日〈老健〉という施設に一週間程お世話になった。先月に続いて二回目である。ここで99才になるという小平定夫さんと出会って、幾度か話す機会に恵まれた。特攻隊員であったが、出陣前に終戦を迎えたらしい。

 小平さんは言う。〝ここに居ると、特に困ることはないけれど、話し相手がいなくてねぇ・・・日本語を忘れそうになる・・・〟


 アララギ派の歌人が多く集まった八ヶ岳山麓の富士見町の出身だという。歌碑も多い。その中で伊藤左千夫(1864~1913)の歌を、確か上諏訪出身であったと思うが同じく歌人の島木赤彦(1876~1926)の筆により、石碑に刻まれた歌について熱く語るのだった。余程胸に沁(し)みた歌だったようで、すっかり諳(そら)んじておられた。詳しくない私は、その歌を書いて戴いた。


  寂志左乃(さびしさの)

  極尓堪写天地丹(きわみにうつるあめつちに)

  寄寸留命乎(よするいのちを)

  都久都九止(つくづくと)

  思布(おもふ)


 万葉仮名で、しっかりとした字であった。(振り仮名は小平さんに確認しながら私が書いたものだから、多少違っているかもしれない。)そしてこう呟(つぶや)いた。〝伊藤左千夫晩年の作だとしてもまだ50才にもならない頃に詠んだ歌ですよ。今の40代でこんな歌が詠めますかねえ・・・。〟

 

 
 人が生きるとは学び続けること、それが直接成長に結びつかなくとも、これ以上先へ行くのはもう無理だ、というところまで歩み続けること。身体だけでなく、心においても・・・。

 ベッドに腰掛けながら、一人でしばしば本を読んでいたり、忘れかけた漢字を、いつも持ち歩いているポケットノートにカタカナで書き記しておいて、部屋に戻っては調べたりしている小平さんを見ていて、そう思った。語り、心動く時の小平さんの表情は輝いた。

 これが人間にしか為し得ない〝人が生きるということ〟なのではないか・・・そんな風に思うようになった。