2022年1月17日月曜日

 

コラム252 <勝蔵叔父の想い出———①>

 

 私の父方は高橋家、母方は近藤家という。
 高橋家の方は先祖に日本画家や寺社建築の彫り師などがいて、その作品は少ないながら今も遺っているが、私が生まれた頃には本家は写真館であった。
 父の兄に当たる本家の伯父と私の父とがその写真館を営んでいた。加えて本家の伯母と私の母はとても仲のよい姉妹であった。常に弟子と女中さんがいて、皆仲がよかった。小学校3年の時に父が独立して隣り町に写真館を作ったから、私も同時に転居・転校しているが、その頃本家に居たお弟子さんや女中さんのことは親しみをもって今でもよく覚えている。その後の交流も親密であったからなのであろう。
 今振り返れば高橋家の方は概して知性的な人が多く、世にいう優秀な人が多かったように思う。

   一方、近藤家の方は高橋家とはだいぶ毛色が違って、極めて個性派、野生派揃いであって、家督は長男へ、とすんなりとはいかなかったようで、一番年下の勝蔵叔父が家督を継いだ。

 その叔父は酒の一升瓶を空にしてそれを枕にしないと眠れないんだなどと言っていたことがあった。真偽のほどは判らないが、豪快な酒飲みであったことは間違いない。しかも酒に強かった。50才位のことであったろうか。さすがに内蔵をあちこちいためてドクターストップがかかったが、酒をやめて長生きなどしても無駄だとばかりに酒を飲み続けて、長生きした。

高橋家も近藤家も共に本家は秋田県湯沢市内にあって、両家はそう遠くない。それ故私はどちらの家にもよく遊びに行き、いとこ達ともまるで実のきょうだいのようにして育った。おじやおば達にもかわいがられ、かなりの年令に達するまで親戚における私の呼ばれ方は〝修坊〟〝修ちゃん〟であった。

 姉たちも親戚も74才になった今も未だにそう呼ぶ人が多い。小さい頃はこの私も余程かわいかったのであろう。きっとその残像が、今もそう呼ばせているのである。