コラム241 <学び、習い、反省す >
このところ『論語』と最も古い時代の記録とされている仏典『ダンマパダ(法句経) 』と『スッタニパータ』を繰り返し読んでいる。人間が出来ていないことを、病を通じて痛い程教えられたからである。
一度や二度読んだくらいでは到底学んだとも理解したとも言えず、身体が不自由な身であっても、読み、学び、習い(実行に移し)、反省を繰り返すことで、自分の中の何かが少しずつ変わっていくような気がする。それでも実践できることが限られるから、また苛立つのである。
現在の脚では半地階の書庫兼書斎まで降りて行けないから、広間のデスクに立てかけてある本を読むしかない。読みたい本が出たら麓にある行きつけの書店に電話をすれば入荷次第、車で30分程かかる山の上まで届けてくれる。ありがたい。皆の協力で今の私の生活は成り立っている。
本当はいつでもそうなのだ。健康体の時はそのことに気づかないだけだ。
その気で見れば、まわりには病に苦しんでいる人が殊の外多い。高齢の人が比較的多いということもあるが、別荘地でも親しくしていた人が毎年1人、2人と欠けてゆく。自然の理(ことわり)とはいえ寂しいことだ。
一人が病に倒れると家族はじめ、周囲の人達も大変だ。私も計り知れない程、周りの人々の世話になっている。恩返ししたい。でもできない。今の私にできることに何があるだろうかと考える。
第1に そうした人々を気が萎(な)えないように元気づけること。
第2に 自分がこれまで読んだ本の中で、今この人のためになるであろうと思われるものを送ること。
第3に こちらも病中にあるが、極力元気な声を短い時間聞かせて語り合い笑い合うこと。
第4には 何よりも自分の徳を高めることだ。
これ位しかない。
私自身は苦しい時も病面(やまいづら)はしないよう、やっと心がけられるようになってきた。つい先日も6人の来客があったが、皆元気そうだと言ってくれた。病面は自分も他人も元気づけない、と判ったからである。しかしそうは言ってもやはり自然体が人間らしくて一番いいな。気負わず、あまりがんばり過ぎないことだ。