2021年11月15日月曜日

 コラム243 <病人(やまいびと)の孤独>

  病人の痛みや苦しみは当の本人にしかわからない。まわりの人達、たとえそれが夫婦であれ、親子であれ、いかに親しい友であれ、共感者であれ、又いかに愛情深い人であれ、わかり得ないことである。なぜなら痛みや苦しみはその人間に固有に与えられたものだからである。

  正直な医師は言う。
〝我々は判ったような顔をしているけれども、本当のところ患者の痛みや苦しみは判らないのだ〟と。
 こう言える人はまっとうな人間だ。仮に判り得たとしても病人と苦しみを分かち合う、共に背負おうと思う感情は人の心として人間らしく、気高いものだが、現実にこんなことを実践していたら、医師は長く務まらないものと思う。癌(がん)になってみなきゃ、癌患者の苦しみはわからない、なんて言われたって癌も多様だし、一人一人皆違うのだから、とてもそんな訳にいかないのが道理というものである。 

 このことは肉体の痛苦に対してばかりでなく、心の痛苦に対しても同様であろう。
 いかなる愛情をもってしても、慈しみをもってしても、他人の心の痛みを真に理解することはできないものだ。せめてそのことだけでも生きている内に知り得て幸いであった。それを補い得るのは、静かに寄り添い得る愛情であり、慈しみの心である、ということも……。
 理解し得ない中にあって、人間として最も気高いのは、他人のために祈り得ることである。

  〝人間であれ!〟という声が聞こえる。

 この言葉を胸に響かせながら、死ぬまで生きよう。

( 2021.10.27 記す )