2020年6月1日月曜日



コラム167 < 知足 / 不知足 >

頂き物をしながら、御礼を申し上げるのを失念することがある。うっかりというのであればまだしも、ほとんど礼を述べる情動すら湧かないとなれば、これはもう行き過ぎた物質社会の中で人間関係―― ひいては健全な人間社会の第一条件を欠いているといわなければならない。「衣食足りて礼節を知る」が裏目に出た形だ。衣食に不自由した困窮した時代には、こんな時代になるとは予想もしなかったに違いないが、なんでも「過ぎたるは及ばざるが如し」で、足ることを知る、即ち「知足」は人間の心が平穏であるために大切な条件である。現代は足ることを知らない「不知足」だらけの社会である。これがどれ程、社会と人心を蝕んでいることか。
 我々の親の世代までは、頂きものには礼状を書くことが基本で、葉書では幾分ていねいさを欠き、電話での礼では失礼になる、といった感覚を持っていたように思う。やむを得ず電話で済ます時には、必ず最後に〝電話で失礼させて頂きます……〟とつけ加えたものだ。私の母親はまめに礼状を書く人だったから、子供達三人にその躾のようなものが余韻として引き継がれている。
母曰く、
 〝誰から頂いたか判らぬ状態で口にするものではありません〟
 だから頂き物の箱などには必ず「○○さんより載く」とサインし、「ありがとう」とまで書き込まれてあったものだ。頂いた気持は感謝の気持と言葉をもって返す―― これが返礼というものであり、人間関係の第一歩だと思うのである。礼を期待する位なら、差し上げぬ方がいいといった論法は上述したことと全く次元を異にする。こうしたことは小さいことながら人間の社会をつくっていく上で大切な一歩であろうと思われる。
 「失念」とは、仏教では「正念を失うこと」と教える。