2017年5月8日月曜日

コラム 88  命を繋(つな)ぐ、とはいえ・・・・・  

つい先日も出会った。
〝人間死んだら終わり、な~んにも残らない・・・・・〟
この人は魂の存在など、信じないと言う。信じるも信じないもその人の勝手というものだが、真実はきっとひとつであろうから勝手とはいえても、自由とはいえない。
信じないと言いながらも通夜や告別式で悲しみを共にし、初七日、四十九日、さらには回忌法要を重ねる人は多い。これは単に慣わしに従っているだけのことなのだろうか。
人間の魂の存在さえ信じない人が多い世の中では、以下のような話は共感をもって受け止められないに違いない。 


人間のために使役され、食われるためだけに飼育されている動物を見て、若い釈迦は苦悩したという。動物達の心を思えば当然である。それでなくとも自らの命を繋ぐために、他の命を犠牲にしなければならない摂理。避け難い命の連鎖。 

無駄死あるいは(犬にははなはだ失礼なことだが)犬死という言葉がある。何の役にも立てずに無駄に命を落とすことを言う。
ドキュメンタリー映画『いのちの食べ方』(原題:OUR DAILY BREAD)を観た。ナレーションなしで現実だけが流れていく映像を観ながら、動物達にもこの無駄死にがきっとあるに違いないと思った。
人間は最も多くの命を犠牲にする存在であれば、彼らを無駄死にさせないためにもそれが何のための犠牲であるかを少しは考えてみなければならない。人間の、より高次な魂への成長のために犠牲になるのだ、と説く人もいる。しかし、そんなことを言われても果たして・・・・・。 

〝食材として我々の手元に届いたあとでさえ、この命の扱いようや食べ方によって浮かばれたり浮かばれないことになったりするだろう。腹一杯になれば当然残すであろうし、残ったものは命の残りとも思わずに大量に廃棄して平気だ。
この映画に見るさながら大量殺戮にも近い飼育動物達の犠牲は、いったい人間の何のためになっているのかと、しきりに思われてならなかった。命の連鎖という自然界のボーダーラインをはるかに越えてしまっていたからである。