2025年9月29日月曜日

 コラム437 <ガラも無いのに何でガラ系なのか> 



 ガラパゴスから来ているんだって?

  生物多様性といい、持続可能な自然といい、今や時代の最先端ではないか。


 私に限って云えばケータイ持つなんてガラでもないという訳か。入退院を繰り返しているから仕方がないんだ。病院の公衆電話は、玄関脇に一台、それも10円硬貨専用ときている。こういう電話こそガラ系と呼ぶべきなのだよ。 



2025年9月22日月曜日

 コラム436 <ウグイスとホトトギス> 


 心掛けのいい鳥がいるもので、『法華経』を常に唱(とな)えている。〝ホーホケキョッ!〟〝ホーホケキョッ!〟ウグイスである。仏教の信者という訳ではないだろうが、春先には住まい塾の東京本部でも聞くことができるし、6月初旬に山小屋にきたがここでもしきりに鳴いている。


 〝ホーホケキョッ!〟〝ホーホケキョッ!〟


 日が経つにつれ、おぼつかなかったさえずりが上手になっていく。

 山中では同時期にホトトギスがよく鳴く。繁殖期の雄は「特許許可局(トッキョキョカキョク)」と鳴く、と図鑑などにも書かれているが、そう言われれば、そう聞こえないこともない程度で私などにはどちらかといえば〝トッキョキョキョキョキョ〟と聞こえる。これが昼だけでなく夜中の暗い樹間を鳴きながら飛んでいく。鳥眼とよく言うが、この鳥は夜も目が見えるのだろう。

 このウグイスとホトトギスには縁があるのだ。ホトトギスは自分で巣を作らず、ウグイスなど他人の巣に卵を産み落とす。育児も他人任せである。これを托卵というらしいが、どうも私はこの性格が好きになれない。企(たくら)むという語源はきっとここにある、とさえ思っている程だ。育児放棄。「ホトトギス派」がなぜ俳壇の主流を形成するに到ったかも私には判らない。しかし育児放棄を責める資格は、私には無いな。21才の娘を亡くしたのだから・・・。別居していたこともあるが、娘の心を察してやることさえできなかった。






2025年9月15日月曜日

 コラム435 <月に行って何をするの?> 


 月面着陸、月面探査が着々と進行中だ。単なる科学的興味や冒険からだけではないだろう。その先何をしようとしているのだろう。


 地球上でやがて枯渇するのが目に見えているレアメタルや、その代替となる鉱物資源の発見・発掘?人間の移住さえ、視野に入れているのだろうか?

 

 その辺のことは私にとってはどうでもいいことだが、神が人類に与えたこの美しい地球を惨々に痛めつけ、破壊し続けた人類が、月に行こうがどこに行こうが構わないが、その前にこの傷めつけた地球環境をしっかりと修復してからにして欲しいと思う。その義務と責任を果たさぬまま、他の星に行っても、同じ罪を繰り返すことになるだろう。

 地球環境の破壊者人類は無反省に科学・技術の進歩を頼りにこのままつき進めば、人類はやがて地球の破壊者からさらに宇宙の破壊者になるだろう。

 根底にカネへの飽く無き欲望を抱える人類はどこに行くにも厚手の高性能マスクをして出かける必要がある。






2025年9月8日月曜日

 コラム434 <骨太の方針?> 


 「骨太の方針」などと言い始めたのは安倍晋三首相の頃からであったか?こういう言葉を使いたがるのは政策の骨が細い証拠である。それ以前に政治家の骨が細いのである。しかし


 〝骨は太いが、骨粗鬆(そしょう)〟


ってことだって十分あるんだ。骨が丈夫であるためには、しなやかな筋肉とその中を通る血管内の血液によって、十分な養分が運ばれていく必要がある。


 それにしても、日本の政策のどこが骨太なのか、いまださっぱり判らない。私には日本の政治家達の決める方針は骨粗鬆症のように見える。

 その手のサプリメントは今沢山出ているから、裏金を使ってでもいいから政治家達は愛飲したほうがいい。かえってその方が裏金も活きようというものである。但し、TVコマーシャルに出てくるサプリメントは放映後30分以内の注文でなければなりませんぞ。極端に安いのは初回のみなのだから・・・。





2025年9月1日月曜日

 コラム433 <金(カネ)と戦争> 


 戦争は数々の惨禍を残しているが、その裏では軍需産業によって巨額の利益を手中にしている者達がいる。そのことを誰も問題にしないが、今日財閥と呼ばれるようになったグループは裏にほとんどそうした歴史を背負っている。

 日本はチマチマした裏金問題で大騒ぎしているがそんな場合ではないだろう、と私は思う。軍需産業によって巨額の金を得て、戦争を喜ぶ人間がいる限り、戦争が人間の歴史から消え去ることはないだろう。彼らは〝喜んではいない、ただもたらされるだけだ〟と言う。ならば受注を断ればいいではないかと考えるが事はそう簡単ではない。松下幸之助氏が遺した戦時中の記録などを読むとそのことがよく判る。

 

 時々思うことがある。全世界の巨額の軍事予算を、平和な世界をつくるために使おうと各国が決心し、実践したなら、どんな変化が生まれるだろうか・・・と。こんな夢のようなことを考えている。


 しかしこれは決して夢ではない。戦争は決してしないと各国がそれこそ一勢に決心すればいいのだから・・・。

 事実、そのように決心している素朴な国は存在するし、日本の先住民族、アイヌも多少のいさかいはあったにせよ、酋長どうし徹底して話し合うことを基本にしていたようだ。


 しかし地球上の食糧自給があやしくなってきている現在、単純な方程式では解けぬ問題が多々あり、金の分配だけでは解決できぬ問題も人類は多く抱(かか)えることとなってしまった。


 〝かたつむりだって、たどりつくんだよ〟

 

仏画師安達原玄さんの言葉である。









2025年8月25日月曜日

 コラム432 <好きこそものの上手なれ> 


 2000年以上前の『論語』にも以下のようにあった。


 〝知る者は好きに如(し)かず〟


 もう少し詳しく見てみよう。


 〝子(孔子のこと:孔子は2500年程前の人である)曰(のたまわ)く。之を知る者は、之を好むに如かず、之を好む者はこれを楽しむ者に如かず〟


 如(し)かずとは適わないというような意味であろう。


 私は大学の建築科に入り、図学、設計製図に優れていた。図面を描き、表現するのも好きだったし、イメージするのも好きだった。だから楽しかった。楽し過ぎて卒業設計など提出期限に2ヶ月も遅れで出す始末だったが、卒業したのだから合格ということにしてくれたのだろう。

 私を助手に迎え入れた井口洋佑助教授(後に名誉教授)はその点で私を見誤ったのだ。これは天才的に優秀だ!私が優秀だったのはその助教授が担当していた科目だけだったのだから・・・。好きでもなく、あまり楽しくもない科目には懸命に取り組むことがなかったからである。この道理は少なくとも2500年も前から教えられていたことだった。人間にとっての真理はそう変わるものではないなあと今さらながらに思わせられるのである。






2025年8月18日月曜日

 コラム431 <一日一善> 


 〝一日一善〟と云う。

 入院している私は朝・昼・晩と三膳いただいているのだから〝一日三善〟を心掛けようとこう思った。

 入院中の患者さんにすれ違ったらあいさつでもほほえみでもいい、声を掛けるだけでもいい。ベッドに横になってリハビリを受けている人の動かぬようになった手を握って励ますだけでもいい。弓なりに曲がってしまった背骨をさすってやるだけでもいい。勿論少し心の交流ができた人に対してである。

 

 看護や介護の人達は見ていて大変だと思うが、長いこと接してきて、そういう現場の人達に一番大切なのは人としての優しい心根・真心であると思うようになった。入退院を繰り返して8年になる。そうした中で何よりもうれしく、苦しさを和らげてくれるのは人の心のやさしさであると確信するようになった。


 〝あの人が夜勤の時は気持ちが重くなる〟と言った人もいたし〝あの人が夜勤の時はナースコールを押さない〟という人もいた。そう言ってはいられない時もあるのだが、お互い思いやりを持って、医療・介護の現場をおだやかなものにしたいものだと思う。







2025年8月11日月曜日

 コラム430 <マンネリ──打てど響かぬ鐘の如くに──> 


  〝打てど響かぬ鐘は捨てられるのみ。〟

 

 何の職業でも基本的な知識と技術が必要なのはいうまでもない。若い内には当然不足が沢山ある。その不足を補うべく、10年、20年、30年と訓練と経験を積み重ねていくのである。


 だが、その後に待っている病がある。マンネリである。

 自分があたかも、もう出来上がっているかの如く錯覚し始める。もう学ぶことは自分には大してないという妄想と思い上がりである。

 素直な心を失い、学ぶ心を失い、向上心を失う。この驕(おご)りと慢心をこそマンネリという。もっと簡単な言葉でいえばうぬぼれ、である。


 生涯現役を理想のようにいう人は多いが、上記の心を失った人間に生涯現役をされたのではたまらない。死ぬまで仕事に携わろうというなら、その者にはあらゆる意味で生涯この向上心が必要である。向上心を失った心は素直さというたおやかな心の命を失ったも同然だからである。ベテランなどと呼ばれたりするが、勘違いしてはならない。マンネリ人間と同意かもしれないのだから・・・。

 逆にいえばマンネリに陥らぬ者をこそ天才と呼ぶべきだろう。私などはその好例である。笑うな!










2025年8月4日月曜日

 コラム429 <卑怯者(ひきょう)者!その②> 


 卑怯者!などと言われると屈辱的に胸にひびいたものだ。だから、日本人の特に男達の多くはそんな風に呼ばれない生き方をどこかで心がけてきたのではなかったか。だが今は卑怯者!などと言う言葉そのものが死語になっていて、仮にそう呼ばれるようなことがあっても恥に通じた感じ方はしないのではないか。直接対決したS社やN社との《住まい塾》の商標問題にしても、法文にさえ違反していなければ正義、しかも私なら恥と感じる事もせいいっぱい自分達に都合のいいように拡大解釈して、〝日本は法治国家なんだから、法に違反しなければいいではないか〟とさえ平然と言う。

 私は〝あなた方は法を守っているつもりのようだが、法文を守っているだけのことであって、私に言わせればあなた方は法文奴隷だ!〟とさえ言い返したものだ。裁判もその傾向が強い。宇宙に存在する法は正しくても、法文とは人間が作ったもので、しかも都合のいいように拡大解釈するような法文のどこに完全な正義があるか!と私は言いたい。

 

 そういう意味で今想い浮かんだ〝国破れて山河あり〟とかつては言ったが、今は〝国破れて惨禍あり〟だ。精神の状況において特にそれが言えるのである。






 『武士道』(新渡戸稲造)『代表的日本人』(内村鑑三)は元々英語で著されたものである。後に日本語訳となったが。なぜそうなったかは、特別の宗教観を持たぬ日本人は何を精神的規範として生きているのかという諸外国人の疑念に対して応えようとして懸命に書いたものだろう。そういう日本人がいたことを我々は忘れてはならないのではないか。





2025年7月28日月曜日

 コラム428 <卑怯者(ひきょう)者!その①> 



 裏金献金に始まり裏口入学、裏口就職等々・・・。卑怯者!などと呼ばれることは(武士道の)恥の文化にも通じ、特に男にとっては屈辱的に響く言葉であった。

 しかし今日そのような感覚、倫理観が男達にあるのだろうか?恥知らずという言葉と同時にこうした精神文化は脈々と受け継がれてきたはずなのに。






2025年7月21日月曜日

 コラム427 <ゲンコツが無くなり・・・> 


 地震・雷・火事・親爺と言われた昔が懐かしい。知ることと身につくことには大きな違いがある。身につくにはどなりつけられることや、時にはゲンコツを食らうこと位、必要である。


 私は自分が思っている以上にイタズラ好きの悪ガキであったようだから父親からも学校の先生からも何度かゲンコツを食らった。冬のストーブ用の薪(まき)でゴツンとやられたこともある。しばしばであったから先生達も手加減を覚えていた。が今はそんなことをしたら大変、とばかりに親爺も先生もさっぱり手を出さなくなったから、かえって危険である。手加減を知らぬからである。






2025年7月14日月曜日

 コラム426 <やるべきことを・・・> 


 他人に言われずとも自らやる者、これを上という。

 他人に言われて、はじめてやる者、これを中といい

 言われてもやらぬ者、これを下という。

 言われても言われてもやらぬ者は、さらにそれ以下、下の下という。


 (「論語」に似たような文があったような気がする)

 指示待ち人間が増えた。身につかぬ者の急増。





2025年7月7日月曜日

 コラム425 <二月の夢とスキー部と> 


 深々(しんしん)と降りしきる雪の夜、入院先の病室のベッドの中で夢を見た。数十センチは積もったであろうスキー場で、深い新雪の中を雪しぶきを浴びながら爽快に、階段を右に左に飛び降りるかのような感覚で(これが深雪を滑る時のコツなのである)滑り降りてゆく。


 〝何だ、予想以上に滑れるじゃないか!〟


そんな気分で、朝目が醒めた。だが私の体は依然左半身マヒのままだった。



 


 元々、住まい塾にはスキー部があって、毎年所を変えてあちこちに行った。北海道のニセコ、新潟の妙高高原、長野の志賀高原、奥志賀高原、野沢温泉、戸隠、群馬の万座温泉、山形蔵王、等々、他にもいくつかある。

 参加者は東京・大阪本部の設計スタッフ、賛助会メンバー、つくり手仲間、住まい塾で家をつくったOBなど15人程が参加していたが、程なく設計スタッフの大半は脱落し(私がイジメ過ぎたからだというが、体育会系の私はただかわいがっただけなのだ)その他のメンバーはほぼ毎年続いた。振り返ってみれば年々温泉場のスキー場が多くなった気がする。その理由は私にはよく判らない。


 私は秋田県湯沢市に生まれ育ったから、特に山形蔵王には馴染みが深かったが、昔よりはるかに快適なスキー場になっていた。さすがに伝統あるスキー場だけに、それに奥羽山脈系だから傾斜も程々でゆったりしていて、おまけに地酒がうまい。ここはまちがいなくおすすめのスキー場だ。スキー部のおかげで沢山の楽しい想い出が残った。

 現在のスキー部長は菅谷輝男君、私は顧問ということになっている。





2025年6月30日月曜日

 コラム424 <お金が無くとも豊かに暮らせる方法> 


 それは生活感覚を磨くことだ。そこから生まれる生活も豊かになるだろうし、生活感覚を磨くプロセスそのものを楽しむことさえできる。


 〝一輪の花の命

  一枝の花の真実(まこと)〟


 私はこの言葉が好きだ。京都のある寺の御住職の言葉である。

 なかなか解決困難な社会の貧困・苦しみもあるが、そうした例外を除いては大方上記のことは可能だろう。


 金・金・金 ─── 金だけが生活を豊かにするなどと盲想するなかれ、金が山ほどあっても、生涯使いきれぬ程ため込んでも、生活が貧しい人もいる。貧しい人はどこまで行っても貧しいものだ。人間の貧しさは金では解決しない。


 最近の日本を見ていて、特にこのことを思う。日本ばかりでなく経済的に発展した国と民族に共通して云えることだ。

 小学校から株式やらなにやら投資のやり方を教えるなど、愚かな国家方針の尻馬に乗ってはならない。国は国民を金稼ぎ(即ち多額納税者)のロボットとでも思っているのだろうか⁉荒(すさ)み始めたこの国の、人間の問題をどうしようというのだろう。人間に与えられた生涯の第一義はどこにあると考えているのだろうか?







2025年6月23日月曜日

 コラム423 <花を愛する人は・・・> 


 〝花を愛する人は、心優しき人なり

  野の花を愛する人は、なお一層心優しき人なり〟


 〝茶を入れるは、心を入れることなり。

  ペットボトルにどうやって心が入れられようか?〟

 

 6月初旬の高原は萌黄色の若葉の新緑とオレンジ色のレンゲツツジをもって出迎えてくれた。心鎮まって、すぐに浮かんだのが上記の二つの言葉である。山小屋に着いたら待ちわびていたかのようにまもなくアトリとキジバトがやってきた。


 〝今年は随分遅かったじゃない?

  苦痛に伏しているかと心配していたよ〟


と云わんばかりに・・・。






2025年6月16日月曜日

 コラム422 <馬場邦夫は不死身です!その②> 


 馬場さんは元々ヘアデザイナーであったらしいが、その面での付き合いは勿論無かったが、恢復後は何事もなかったように生活を続けているのは大したものだ。奥さんの明美さんの話では〝あの人はこれまでずっと見てきて、自分の現状を受け入れて、苦しい、苦しい、と言ったり、これから先に不安を抱くというようなことのない性格のようね〟との評価だ。人間だから内心そんなことばかりでもないだろうが、それだけ人間がしなやかに出来ているということなのだろう。「和顔施」という言葉を想い浮かべた。彼はいつもにこにこしている。この話を私の連れ合いに話したら、〝あなたも見習いなさい!〟と逆に、カウンターパンチを食らった。

 それにしても半身マヒと視床痛に苦しみはじめ、新型コロナワクチンの副作用に加えて、昨年8月の最先端治療Ⓐの後遺症、今年2月の最先端治療Ⓑの後遺症に計7年間も終日苦しみ続けてくると、さすがにバテ気味だ。


 その時に思うのが馬場さんの上記の言葉である。〝苦しい、苦しいとばかり言っていてもまわりの人も自分も幸せにしないわよ!〟これも連れ合いの言葉である。ごもっともである。以来〝調子はどうですか?〟と人に聞かれる度に馬場さんにあやかって


 〝高橋修一は不死身です!〟

 

 正しくは〝高橋修一は死ぬまで不死身です!〟かな・・・当り前じゃないか!


と言うことにしている(時々・・・)。

 

 考えてみれば私の住んでいる八ヶ岳は美濃戸高原といい富士見高原に山連なりに隣接している。それを「不死身高原」のとなりに住んでいるのだ、と思うようにして気合いを入れている。世話になっている沢山の人々への感謝の祈りと共に・・・。充電池の電気が残り少ないので、今日はこの辺で・・・。









2025年6月9日月曜日

 コラム421 <馬場邦男は不死身です!その①> 


 馬場さんとは八ヶ岳の別荘仲間である。何をやっても様になり、カッコよかった。バンジョウを弾き、トヨタの黄色のランドクルーザーに乗り、オートバイを乗り廻し、黒いドーベルマンのような犬と共に散歩して歩く姿も様になっていた。

 

 その馬場さんがオートバイでカーブにさしかかって、左側にバンク(傾けてヒザを広げる)したその時、対向車のダンプが突然現れて接触し、左ヒザの骨を砕いた。粉砕骨折だった。(幸いにもヒザそのものをはずれて少し下部だったらしい。)その勢いで飛ばされたのだろう。ヘルメットは割れ、脳挫傷にまで及んでいたと云う。

 その話を聞いた時、再起不能と思われたが、諏訪の日赤病院で月に4度の手術を受け、5か月間の入院、続いて回復期半年間の車椅子を使いながらのリハビリ、その間もその後も自主トレに努めたに違いない。そうした経過を経て見事、退院してきた時に届いたのが上記一行文のカードであった。このように何をやってもスマートだった。






2025年5月26日月曜日

 コラム420 <ブログ再開のお知らせ> 



 二ヶ月程休んでしまいましたが

 6月9日(月)から再スタートします。

 毎回楽しみにしてくれていた皆さん、ありがとうございます。再開を待ってくれていた皆さん、重ねて御礼申し上げます。 

                                       高橋






2025年4月7日月曜日

  <マンデー毎日 (ブログお休みします)> 


 毎週月曜日に続けてきました「── 信州八ヶ岳── 高橋修一の『山中日誌』」ですが、筆者体調不良につき、1か月ほどお休みします。

 また書けるようになり次第、復活いたしますので、しばしお待ちください。

 


2025年3月31日月曜日

 コラム419 <人間の涙> 


 人間の涙は、時に何よりも美しいと私は思っている。悲しみの涙だけではない。涙にも色々ある。切ない涙、同情の涙も無念の涙も、こみあげてくる感動の涙も、相手の心中を思いやっての涙も・・・。


 すべての動物の中で最も残酷なのは人間だと思えることもあるが、やはり人間の心の中には最も美しいものが潜んでいる。それは涙というものだ。そう信じなければ、真には生きていけないものと思う。苦しみの中にある人の心を察するあたたかい涙。ステファン・グラッペリというジャズヴァイオリニストは、よく涙を流す人であったというが、人間と同様、演奏もあたたかかった。その源泉はあたたかい心であったろうと思う。時々もらい泣きすることもあるが、源泉は同じくあたたかい心。

 そういう意味では人間の心は劣化し続けている。この問題をどうしていくかは高度に文明化した国々の最大の課題と思う。IT化の進む国々、際限なく技術革新を続ける国々、経済発展をとめどなく進めていく国々などは人間の心の問題をどのように考えているのだろう。


 敗者の心中に思いを致し、勝ち誇る態度を慎む惻隠(そくいん)の情などは何と日本的な心なのだろうと思う。これが今や武芸などにおいても全く損なわれている。

 地球の地下水位も水質も低下し続けているのと同じように人間の涙の水位も質も年々低下し続けているのではないか。新Vロート位では、とても間に合わない。






2025年3月24日月曜日

 コラム418 < 父の想い出と後悔  ②> 


 私が病室に入った時には気丈な父の命ももう最後であると一見して判った。苦しそうに息を吸っても吸っても、肺が固くなっていて吸収しないのだから、苦しかったろうと思う。今思えば苦しんでいる父の手を握って〝もう十分苦しんだのだから、これ以上がんばらなくていいよ〟とでも言ってやったらさぞかし父も安らいだろうに、と思えて、これが父への大きな悔いである。最後のモルヒネを打ってからは、ローソクの火が消えるように父の命もス、ス、ス、ス、ス-ッと消えていった。

 〝修ちゃん(姉達も親戚の人達も私のことを未だにこう呼ぶ)が来るまで父さん待っていたんだぁ〟と言われたその通りの最後であった。未だに写真に手を合わせる時、この時の手を握ってやれなかったことを謝っている。