2025年11月3日月曜日

 コラム442 <ドングリコロコロ> 


 天然スレートの屋根の上に、ドングリの実が降ってくる。


 〝コツン、コロコロ・・・コン(これはウッドデッキに落ちた音です)〟


 数日前から水ナラの木からドングリが屋根を伝って落ちてゆく。最後の〝コン〟はうまく転がれば〝ココココココ〟と聞こえたりする。まるでリス達に〝ここ、ここ、ここ〟と伝えている風でもある。


 ドングリは夜半の暗い中を落ちてゆく。

 翌朝ウッドデッキの上にはその痕跡(こんせき)が残っているが、不思議にも残っているのはほとんどがヘタばかりで、実の方はもうすっかり無い。リスが早朝から懸命に食べて、まもなくやってくる厳しい冬に備え始めているのだろう。ここには植物と動物の自然なつながりがある。





 別荘地でも樹々を伐る人が多かった頃、この別荘地では「自然保護協定」を作った。私が住民の会の会長を務めていた頃だ。

 ある区画の住民が、敷地内の樹々を皆伐し、それに抗議した道路向かいのAさんに向って

 〝私は弁護士だ!法的に何ら問題は無い!〟

と言ったという話をAさんから直接聞かされたのがきっかけだった。

 それまで一度も出たことの無かった年に一度の総会に初めて出席して私はこの話をした。

 〝自然環境は住民皆の共有財産である。しかるにそういう価値観を持たぬ人間もいて、かくかくしかじかのような事件が起きた。皆伐を規制する法文が無いというだけのことであって、そういう解釈は私に言わせれば法は法でも〝アホウ〟と言う。〟

 会場のあちこちから拍手が起こった。そして550区画、地権者約350人程もいるこの規模の別荘地でルールが何もない状態で豊かな自然環境を守れると考えるのは土台無理な話だ。色んな考えの人がいるのだから・・・。と続けた。また拍手があちこちから湧いた。

 これがきっかけで私は役員会で、欠席裁判のまま次期会長に推薦され、以来実質5期10年会長を務めた。

 自然保護協定の原案も、言い出しっぺだから、と私が作る羽目になった。忙しい日々から解放されようとここに来たはずなのに、一層忙しいことになった。


 協定というのは法的な拘束力を持たないから住民の力だけでは弱いと考え、管理会社と共同名義で発表した。以来皆伐は減り、現在ではバランスのとれた間伐を多く目にするようになった。



2025年10月27日月曜日

 コラム441 <今の私の名はグ・ロッキー③> 


〈リリカからタリージェへ〉──最後の強烈なボディーブロー──

 今回思ったのは、ジェネリック薬品のことだ。開発費がかからないし、同じようなものが安価にできるのはいいが、薬の名前まで全く変えるのは問題だと思う。


 今回の肋骨他の骨折は痛みを和らげるための「タリージェ」という薬の副作用に始まっている。私の体質との相性が悪かったのだろう。強烈な眠気におそわれ、本を読んでいても意識を失うようにデスクにゴツ~ンと頭を打ち、さらには椅子から転げ落ちるようにして並べてあったCDに頭を突っ込み、広い額から血を流した。骨折はその延長線上にある。


 夜、広間の大きなテーブル上に置いてあるデスクスタンドを消して後ずさりしながらベッドに辿り着こうとしたのだが、着く1メートルも前から真後ろに転倒し、オーダーで作った木のベッドのフレームに真一文字に背を強打したのだった。眠気で足がふらついていたのであろう。まるで十字架にかかったイエス様の像のような恰好(かっこう)で、しばらく立ち上がれなかった。

 翌朝救急車で「富士見高原病院」に運ばれた。担当医が内科の先生だったためか、最初は腰部肋骨一本骨折とのことだったが、十日間の入院後自宅療養でもOKと言われたので退院した。しかし苦しさが続くのでここ数年行きつけにしている「ライフクリニック蓼科」で再度診察を受けた。



                                                          

 




 〝高橋さん、肋骨一本どころの話じゃありませんよ〟


結果は前々回のコラムに書いた通りである。

 「タリージェ」という薬は後に知ったのだが「リリカ」という薬のジェネリックとはいえないまでも、同類の改良薬であることが判った。

 このかわいい女性のような名のリリカには危ない想い出がある。毎年入院リハビリを続けている鹿教湯病院で、たしかコロナワクチン以後の痛みを和らげるために処方されたと思うが、坂道の多い歩行コースで筋脱力症のように腿(もも)に力が入らなくなり、危ないと判ってすぐに中止してもらった薬だった。

 病院が変わればその辺の細かな情報(いきさつ)までは共有できないから、こういうことが起きるのである。もしも「リリカ」の後発品なり、改良薬といったことがどこかに明記されていれば、これは私の体質に合わないと即、判断できたに違いない。

 身体の痛み・苦しみを和らげる薬には、いったいに眠気、ふらつき、筋弛緩(きんしかん)などの副作用がある。何でもない人もいるようだが、私の場合そのどれもが出た。今回の「タリージェ」はさらに強烈であった。

 今回のブログのテーマに「グ・ロッキー」と思いついたのには以上のような訳があったのである。









2025年10月20日月曜日

 コラム440 <今の私の名はグ・ロッキー②> 


 薬の副作用とは怖いものだ。〝効けば薬、効かねば毒薬〟とはよく言ったものだ。主治医とリハビリのトレーナ(セラピスト)達の楽しい中にも懸命な努力によって私の視床部脳出血の左半身マヒの後遺症は順調な回復を見せた。


〈コロナワクチン〉

 だが三度のコロナワクチンでマヒ側の筋肉が緊張し、つっぱり、大きい関節、小さな関節にかかわらず、全ての関節がまるで通風のように痛み苦しむようになった。眠れぬ夜の到来である。三段階の悪化である。


〈ボトックス(ボツリヌス療法)〉

 リハビリのおかげで関節は固まっていないから、ボトックス向きではないと2つの病院で診断された。だが苦しさは続く。人の紹介で松本の脳神経外科専門病院を訪ねたが、診断は同じだった。その担当医は気さくなドクターで、


 〝わざわざ松本までやって来て、何もしないで帰された、ではねえ・・・〟と言って、

 〝ボトックスを特に苦しい場所に打ってみますか?病院でもやってないんだけれどもチャレンジとしてやってみますか?〟  

 〝こんなに苦しみが続いているんだからチャレンジでも何でもやってみます〟


と私は答えた。

 肩甲骨まわり、肩、背筋、肘、と計八本の注射を受けた。毒薬なのにいやに気楽に打つんだなあ、と思ったが、これが裏目に出て翌日から症状はさらに悪化した。注射を打ってから数年経つというのに苦しい副反応はいまだに抜けない。






2025年10月13日月曜日

 コラム439 <今の私の名は、グ・ロッキー①> 


 背中側の腰部肋骨(ろっこつ)が1本折れ、他に3本と肩甲骨にヒビが入った。背骨がやられたと思ったが、幸いその方はやられずに済んだ。

 入院先では一ヶ月程で痛みは和らぐだろうとのことだったが、10日間の入院後3か月が過ぎようというのに苦しさは増すばかりだ。

 

 シルベスター・スタローン主演の映画『ロッキー』はこれまで幾度も見た。体育会系の血が騒ぐのか、ロッキーを観るとアドレナリン全開となる。主人公の名は勿論ロッキーだが、今の私の名は、グ・ロッキーだ。

 

 しかし、今回はロッキーのまねごとをした訳でなし、リングに上がってボクシングをした訳でもない。敵はボクサーではなく薬の副作用だった。






2025年10月6日月曜日

 コラム438 <最も鍛え難いもの> 


 前にも書いた気がするが再び同じことを思ったので書く。人間で最も鍛えにくいものは


  ・人間力と呼んでもいい人間性、はては人格

  ・人間の美的感性


 これには日常生活における長い積み重ねが必要である。学び、経験し、注意され、素直な心でそれを受け取り実践に結びつけてゆく。それを人生の楽しみとして、生活の中で楽しみ続けることだ。


 〝吾日に吾が身を三省す(われ日にわがみをさんせいす)〟


 論語の一節である。

 いずれにせよ豊かな人間性と美的な生活感覚を養うには長い年月を要するということだ。これに効く薬やサプリメントは無い。








2025年9月29日月曜日

 コラム437 <ガラも無いのに何でガラ系なのか> 



 ガラパゴスから来ているんだって?

  生物多様性といい、持続可能な自然といい、今や時代の最先端ではないか。


 私に限って云えばケータイ持つなんてガラでもないという訳か。入退院を繰り返しているから仕方がないんだ。病院の公衆電話は、玄関脇に一台、それも10円硬貨専用ときている。こういう電話こそガラ系と呼ぶべきなのだよ。 



2025年9月22日月曜日

 コラム436 <ウグイスとホトトギス> 


 心掛けのいい鳥がいるもので、『法華経』を常に唱(とな)えている。〝ホーホケキョッ!〟〝ホーホケキョッ!〟ウグイスである。仏教の信者という訳ではないだろうが、春先には住まい塾の東京本部でも聞くことができるし、6月初旬に山小屋にきたがここでもしきりに鳴いている。


 〝ホーホケキョッ!〟〝ホーホケキョッ!〟


 日が経つにつれ、おぼつかなかったさえずりが上手になっていく。

 山中では同時期にホトトギスがよく鳴く。繁殖期の雄は「特許許可局(トッキョキョカキョク)」と鳴く、と図鑑などにも書かれているが、そう言われれば、そう聞こえないこともない程度で私などにはどちらかといえば〝トッキョキョキョキョキョ〟と聞こえる。これが昼だけでなく夜中の暗い樹間を鳴きながら飛んでいく。鳥眼とよく言うが、この鳥は夜も目が見えるのだろう。

 このウグイスとホトトギスには縁があるのだ。ホトトギスは自分で巣を作らず、ウグイスなど他人の巣に卵を産み落とす。育児も他人任せである。これを托卵というらしいが、どうも私はこの性格が好きになれない。企(たくら)むという語源はきっとここにある、とさえ思っている程だ。育児放棄。「ホトトギス派」がなぜ俳壇の主流を形成するに到ったかも私には判らない。しかし育児放棄を責める資格は、私には無いな。21才の娘を亡くしたのだから・・・。別居していたこともあるが、娘の心を察してやることさえできなかった。






2025年9月15日月曜日

 コラム435 <月に行って何をするの?> 


 月面着陸、月面探査が着々と進行中だ。単なる科学的興味や冒険からだけではないだろう。その先何をしようとしているのだろう。


 地球上でやがて枯渇するのが目に見えているレアメタルや、その代替となる鉱物資源の発見・発掘?人間の移住さえ、視野に入れているのだろうか?

 

 その辺のことは私にとってはどうでもいいことだが、神が人類に与えたこの美しい地球を惨々に痛めつけ、破壊し続けた人類が、月に行こうがどこに行こうが構わないが、その前にこの傷めつけた地球環境をしっかりと修復してからにして欲しいと思う。その義務と責任を果たさぬまま、他の星に行っても、同じ罪を繰り返すことになるだろう。

 地球環境の破壊者人類は無反省に科学・技術の進歩を頼りにこのままつき進めば、人類はやがて地球の破壊者からさらに宇宙の破壊者になるだろう。

 根底にカネへの飽く無き欲望を抱える人類はどこに行くにも厚手の高性能マスクをして出かける必要がある。






2025年9月8日月曜日

 コラム434 <骨太の方針?> 


 「骨太の方針」などと言い始めたのは安倍晋三首相の頃からであったか?こういう言葉を使いたがるのは政策の骨が細い証拠である。それ以前に政治家の骨が細いのである。しかし


 〝骨は太いが、骨粗鬆(そしょう)〟


ってことだって十分あるんだ。骨が丈夫であるためには、しなやかな筋肉とその中を通る血管内の血液によって、十分な養分が運ばれていく必要がある。


 それにしても、日本の政策のどこが骨太なのか、いまださっぱり判らない。私には日本の政治家達の決める方針は骨粗鬆症のように見える。

 その手のサプリメントは今沢山出ているから、裏金を使ってでもいいから政治家達は愛飲したほうがいい。かえってその方が裏金も活きようというものである。但し、TVコマーシャルに出てくるサプリメントは放映後30分以内の注文でなければなりませんぞ。極端に安いのは初回のみなのだから・・・。





2025年9月1日月曜日

 コラム433 <金(カネ)と戦争> 


 戦争は数々の惨禍を残しているが、その裏では軍需産業によって巨額の利益を手中にしている者達がいる。そのことを誰も問題にしないが、今日財閥と呼ばれるようになったグループは裏にほとんどそうした歴史を背負っている。

 日本はチマチマした裏金問題で大騒ぎしているがそんな場合ではないだろう、と私は思う。軍需産業によって巨額の金を得て、戦争を喜ぶ人間がいる限り、戦争が人間の歴史から消え去ることはないだろう。彼らは〝喜んではいない、ただもたらされるだけだ〟と言う。ならば受注を断ればいいではないかと考えるが事はそう簡単ではない。松下幸之助氏が遺した戦時中の記録などを読むとそのことがよく判る。

 

 時々思うことがある。全世界の巨額の軍事予算を、平和な世界をつくるために使おうと各国が決心し、実践したなら、どんな変化が生まれるだろうか・・・と。こんな夢のようなことを考えている。


 しかしこれは決して夢ではない。戦争は決してしないと各国がそれこそ一勢に決心すればいいのだから・・・。

 事実、そのように決心している素朴な国は存在するし、日本の先住民族、アイヌも多少のいさかいはあったにせよ、酋長どうし徹底して話し合うことを基本にしていたようだ。


 しかし地球上の食糧自給があやしくなってきている現在、単純な方程式では解けぬ問題が多々あり、金の分配だけでは解決できぬ問題も人類は多く抱(かか)えることとなってしまった。


 〝かたつむりだって、たどりつくんだよ〟

 

仏画師安達原玄さんの言葉である。









2025年8月25日月曜日

 コラム432 <好きこそものの上手なれ> 


 2000年以上前の『論語』にも以下のようにあった。


 〝知る者は好きに如(し)かず〟


 もう少し詳しく見てみよう。


 〝子(孔子のこと:孔子は2500年程前の人である)曰(のたまわ)く。之を知る者は、之を好むに如かず、之を好む者はこれを楽しむ者に如かず〟


 如(し)かずとは適わないというような意味であろう。


 私は大学の建築科に入り、図学、設計製図に優れていた。図面を描き、表現するのも好きだったし、イメージするのも好きだった。だから楽しかった。楽し過ぎて卒業設計など提出期限に2ヶ月も遅れで出す始末だったが、卒業したのだから合格ということにしてくれたのだろう。

 私を助手に迎え入れた井口洋佑助教授(後に名誉教授)はその点で私を見誤ったのだ。これは天才的に優秀だ!私が優秀だったのはその助教授が担当していた科目だけだったのだから・・・。好きでもなく、あまり楽しくもない科目には懸命に取り組むことがなかったからである。この道理は少なくとも2500年も前から教えられていたことだった。人間にとっての真理はそう変わるものではないなあと今さらながらに思わせられるのである。






2025年8月18日月曜日

 コラム431 <一日一善> 


 〝一日一善〟と云う。

 入院している私は朝・昼・晩と三膳いただいているのだから〝一日三善〟を心掛けようとこう思った。

 入院中の患者さんにすれ違ったらあいさつでもほほえみでもいい、声を掛けるだけでもいい。ベッドに横になってリハビリを受けている人の動かぬようになった手を握って励ますだけでもいい。弓なりに曲がってしまった背骨をさすってやるだけでもいい。勿論少し心の交流ができた人に対してである。

 

 看護や介護の人達は見ていて大変だと思うが、長いこと接してきて、そういう現場の人達に一番大切なのは人としての優しい心根・真心であると思うようになった。入退院を繰り返して8年になる。そうした中で何よりもうれしく、苦しさを和らげてくれるのは人の心のやさしさであると確信するようになった。


 〝あの人が夜勤の時は気持ちが重くなる〟と言った人もいたし〝あの人が夜勤の時はナースコールを押さない〟という人もいた。そう言ってはいられない時もあるのだが、お互い思いやりを持って、医療・介護の現場をおだやかなものにしたいものだと思う。







2025年8月11日月曜日

 コラム430 <マンネリ──打てど響かぬ鐘の如くに──> 


  〝打てど響かぬ鐘は捨てられるのみ。〟

 

 何の職業でも基本的な知識と技術が必要なのはいうまでもない。若い内には当然不足が沢山ある。その不足を補うべく、10年、20年、30年と訓練と経験を積み重ねていくのである。


 だが、その後に待っている病がある。マンネリである。

 自分があたかも、もう出来上がっているかの如く錯覚し始める。もう学ぶことは自分には大してないという妄想と思い上がりである。

 素直な心を失い、学ぶ心を失い、向上心を失う。この驕(おご)りと慢心をこそマンネリという。もっと簡単な言葉でいえばうぬぼれ、である。


 生涯現役を理想のようにいう人は多いが、上記の心を失った人間に生涯現役をされたのではたまらない。死ぬまで仕事に携わろうというなら、その者にはあらゆる意味で生涯この向上心が必要である。向上心を失った心は素直さというたおやかな心の命を失ったも同然だからである。ベテランなどと呼ばれたりするが、勘違いしてはならない。マンネリ人間と同意かもしれないのだから・・・。

 逆にいえばマンネリに陥らぬ者をこそ天才と呼ぶべきだろう。私などはその好例である。笑うな!










2025年8月4日月曜日

 コラム429 <卑怯者(ひきょう)者!その②> 


 卑怯者!などと言われると屈辱的に胸にひびいたものだ。だから、日本人の特に男達の多くはそんな風に呼ばれない生き方をどこかで心がけてきたのではなかったか。だが今は卑怯者!などと言う言葉そのものが死語になっていて、仮にそう呼ばれるようなことがあっても恥に通じた感じ方はしないのではないか。直接対決したS社やN社との《住まい塾》の商標問題にしても、法文にさえ違反していなければ正義、しかも私なら恥と感じる事もせいいっぱい自分達に都合のいいように拡大解釈して、〝日本は法治国家なんだから、法に違反しなければいいではないか〟とさえ平然と言う。

 私は〝あなた方は法を守っているつもりのようだが、法文を守っているだけのことであって、私に言わせればあなた方は法文奴隷だ!〟とさえ言い返したものだ。裁判もその傾向が強い。宇宙に存在する法は正しくても、法文とは人間が作ったもので、しかも都合のいいように拡大解釈するような法文のどこに完全な正義があるか!と私は言いたい。

 

 そういう意味で今想い浮かんだ〝国破れて山河あり〟とかつては言ったが、今は〝国破れて惨禍あり〟だ。精神の状況において特にそれが言えるのである。






 『武士道』(新渡戸稲造)『代表的日本人』(内村鑑三)は元々英語で著されたものである。後に日本語訳となったが。なぜそうなったかは、特別の宗教観を持たぬ日本人は何を精神的規範として生きているのかという諸外国人の疑念に対して応えようとして懸命に書いたものだろう。そういう日本人がいたことを我々は忘れてはならないのではないか。





2025年7月28日月曜日

 コラム428 <卑怯者(ひきょう)者!その①> 



 裏金献金に始まり裏口入学、裏口就職等々・・・。卑怯者!などと呼ばれることは(武士道の)恥の文化にも通じ、特に男にとっては屈辱的に響く言葉であった。

 しかし今日そのような感覚、倫理観が男達にあるのだろうか?恥知らずという言葉と同時にこうした精神文化は脈々と受け継がれてきたはずなのに。






2025年7月21日月曜日

 コラム427 <ゲンコツが無くなり・・・> 


 地震・雷・火事・親爺と言われた昔が懐かしい。知ることと身につくことには大きな違いがある。身につくにはどなりつけられることや、時にはゲンコツを食らうこと位、必要である。


 私は自分が思っている以上にイタズラ好きの悪ガキであったようだから父親からも学校の先生からも何度かゲンコツを食らった。冬のストーブ用の薪(まき)でゴツンとやられたこともある。しばしばであったから先生達も手加減を覚えていた。が今はそんなことをしたら大変、とばかりに親爺も先生もさっぱり手を出さなくなったから、かえって危険である。手加減を知らぬからである。






2025年7月14日月曜日

 コラム426 <やるべきことを・・・> 


 他人に言われずとも自らやる者、これを上という。

 他人に言われて、はじめてやる者、これを中といい

 言われてもやらぬ者、これを下という。

 言われても言われてもやらぬ者は、さらにそれ以下、下の下という。


 (「論語」に似たような文があったような気がする)

 指示待ち人間が増えた。身につかぬ者の急増。