コラム331 <白井晟一について>
───黄金のみが輝くものではない───
私が38才の時に『悠』1985年6月号に書いたものである。よく書けているので再録する。
うけた知識を貯金していれば今頃かなりの博識になっていたにちがいない。だが落とした通帳もあれば満期を待たずして途中解約したものもあって、通帳の額面ははなはだ心もとない。もともと私は自身に対して知識のつめ込みを疎(うと)んじてきたから気にもせずにきた。
師白井晟一は晩年「知識が邪魔になる・・・」としきりに言っていた。金だってありあまれば困ったことになるのだ。ごもっとも・・・と思ったがその深意を汲めぬのは私に邪魔になる程の知識がないからにちがいない。
師はまた実践しようという心がまえがないまま学ぶことを叱責した。自己改善のためというよりも、試験のため、成績のため、はては知識そのもののためと見当違いの学び方をしてきた戦後世代は、これではだめだとわかってもなかなか身についた性癖が改まらない。マスメディアと教育のおかげでいっぱしのことを言えるようにはなったが、いかにも足腰が立たない。行動がないのだ。知識と行動がこれほどバランスを欠いた時代がかつてあったのだろうか。
学ぶだけで行動しないというのは便秘のようなものだ。辛いばかりでいきおい活力がなくなる。知識をつめ込むだけで行動に還元されないなら人間は程度の悪い辞典に等しいではないか。行動なきところ、おおむねその一挙一動を打算によって換算しないと動けぬようになっている。だが、しかし、結局人は安住の地を得られずにうさばらしをする。「金はすべてにまさる力なり」では満足しないのだ。知識偏重の時代。改革のエネルギーとは無縁の不平不満症候群。
時代の風潮を憂えてのことであったか、師は依頼された親和銀行本店の正面入口頂部に、ラテン語で「黄金のみが輝くものではない」と刻んだ。師の思いの表出であった。共鳴するものは多かったが理解するものの少なかった孤独な心のうちを思うと私は今切ない思いにかられる。10年以上生活を共にした私も共鳴者の一人を出ることはできなかった。結局、一合の枡をもって一升の水を汲むわけにはいかないのだ。人はやはり人間としての完成を求めて充足する。人間を人間足らしめようとする先人の孤独にみちた教訓を汲み上げたい。