2022年10月3日月曜日

 コラム289 <〝先生(センセイ)〟その①──瀬戸内寂聴さんのインタビュー番組を見て>

 

 確かNHK番組だったと思うが、入院中に病室で見たのである。インタビュアが最初から最後まで寂聴さんを、〝センセイは・・・〟〝先生は・・・〟と頻繁に呼ぶ。あれほど頻繁に使われると、〝先生(センセイ)〟もいやな響きがしてくる。

 聞いているうちに

 〝センセイ(先生)って言葉、いやだねえ・・・〟と感じられてきた。


 いい響きの時もあるけれど、何ともいやな響きに聞こえる時がある。これは寂聴さんが先生と呼ばれるにふさわしい人かどうかとは、ほとんど関係が無いように思われる。これは単に〝過ぎたるは云々〟の問題なのか。


 インタビューしている人は寂聴さんを尊敬しているに違いないのだけれど、これはいったい何なのだろうと考えさせられた。

 〝センセイ〟が世に多くなりすぎたせいなのか。媚(こ)びた響きの時もあれば、極めて自然に響く時もある。でもやはり、やたらに〝先生〟〝センセイ〟と呼ぶのは、いやだねえ。

 私は直接寂聴さんにお会いしたことはないけれど、仮にそういう機会に恵まれていたなら、〝瀬戸内さん〟より〝寂聴さん〟と呼んでいただろうな、と思う。それが一番よく似合うし、自然に感じられるからである。


 特に初対面の時など、どう呼ぼうかと考える場合がある。迷ったその時点ですでに、この先生(センセイ)はいやな性質を帯びた言葉になるのだろうと思う。水の流れの如く、であればまだいいけれど、姓でもいいし名でもいい、〝〇〇さん〟これが一番いい。最も自然だし、飾り気がなくていい。第一余計なことを考えなくていいところがいい。

 


 因み(ちなみ)に私は人からどう呼ばれているかといえば、小さい時はよっぽどかわいかったらしく、

 きょうだい、親戚からは75才になった今でも〝修(しゅう)ちゃん〟

 真心の知れた親しい人からは〝修(しゅう)さん〟

 最も多いのはやはり〝高橋さん〟かな。

 〝先生〟と呼ばれる時もあるにはあるけれど、それでも違和感を覚える時もあれば、そうでない時もある。この違和感は真情と関係していることと思う。

 

 どう呼ばれようと大した問題ではないけれど、素直な心で、自然に呼び合うのがやはり一番だ。気楽だしね。