2022年5月23日月曜日

 コラム270 <原発と地球滅亡の可能性———無きに等しい非核三原則>


 原子力空母は原子力に頼っている以上、廃液が出るはずだ。こんな指摘をこれまで一度も聞いたことがないが、大丈夫なのか?


 日本の政府が国民のためにあまりならないのは、政治家自身が現場にあまり出ないからである。票集めにつながるような会合には、出しても出さなくても大差ない顔をよく出すけれども、それらは少なからず単なる顔見世興行である。


 東日本大震災の時でも、現地を訪ね、悲惨な現実を目(ま)の当たりにして、困り、苦しみ、悲しんでいる地元住民達に、どれ程の議員が親身になって接したか。

 人の痛みを知るってことはそんなに簡単なことじゃないけれども、その行動なしには、人の苦しみや悲しみに同情し、それを政治の場に活かすエネルギーにしていくことはできないと思うからだ。他人の作ったデータや報道を見て、知ったかぶりをするのがせいぜいだ。生の現地には耐えがたい悪臭が立ち籠めていたが報道には臭いがない。


 同時に起きた福島第一原発を代表とする原発事故の実態がどんなものであったか、故郷を追われ、現地で放射能事故と闘った人々の悲惨な現状、その中には直接・間接にさまざまな形で死に追いやられた人々が沢山いる。

 この私でさえ5回訪ねたからこそ、少しは肌で理解することができる。津波は避けられなかったとしても、原発は人間がつくり出したもの、日本の政治家達が長きに亘って原発政策を推進してきたこと———遅きに失したがこれはもうストップしなければならない。

 核廃棄物の処理もままならない。その前段階を中間貯蔵と呼ぶのは易しいけれど、いってみれば定期借地権付のような仮置場なのだ。それが国が民間人と約束した期限が来ても、全くどかす気配すらない。元々見込みの立たない約束をするとは、これは完全に住民を欺(あざむ)く騙(だま)し打ちではないか。


 仮に廃炉を決めたとしても、それが効力を失うまでには厖大な年月と金を要するという。その前に戦争でも起きてミサイルでもぶち込まれたら終わりだ。何せいつの間にか日本には54基もの原発があるのだから。現代の軍事技術からすればその気になりさえすればそんなことはたやすいことだ。この小さな島国にありながら、何を根拠に54基にまでふくれ上がったのだろう。40年の使用期限が過ぎた浜中原発も60年までの延長稼働が認められたという。他の原発もこれに倣(なら)って、延長、再延長の道を歩むだろう。止めても巨額の金がかかっていくだけなのだから……。


 いかなる理由、いかなる言い訳、いかなる科学的根拠に基づこうと、何かあったら人間の手には負えないようなあんな危険極まりない原発は地球上に作ってはならないのだ。そんなものを必要としないで成り立つ生活・社会を我々はぜがひにも創り出さなければならないのだ。(2021.1.19 鹿教湯病院病室にて記す)

(※写真はうず高く積まれた除染土の山:仮置場 福島県飯舘村で撮影。)