2021年8月30日月曜日

 

コラム232 <物知り>

  秋のものを霧(きり)、春のものを霞(かすみ)、靄(もや)は単にモャ~ッとしているからもやなのではない。霧より見通しがよく、視程1km超のものをいう———山中生活が長いのだ。それ位のことは私だって知ってるぞ!

  何でもよく知っている人がいるものだ。いわゆる〝物知り〟である。その割に人間が出来ていないと感じさせられるのは知り方が知識に偏り、人間理解を深めて自らの人格が風格を増すまでに至らなかったからなのか。

 もっと判りやすくいえば、脳細胞だけは鍛えられたが、それが精神に到(いた)らず、身体化されぬままに来てしまったからなのだろうか。そのことに気づかず物知りのまま生涯を送るとすれば、その溜め込んだ知識は何のためのものであったろうか。私は最近そんなことをよく思うようになった。


 そもそも何のために学び、知るのであろうか。専門家に専門知識が必要なのは当然といえば当然だが、それでも同様の問題があるのではないか。
 特に進学のため、資格取得のための勉強の傾向が強くなってそれが長く続いたからなおさらである。「学びの本質は人間をつくり上げるためにあり」と考えれば、血肉化されない知識にどれ程の意味があるのだろう。知る病と書いて痴(おろか)と読ますなど何と絶妙なことだろう。
 知らなくていいことを多く知り、人間向上のために知るべきことを知らない、知ろうともしない———こういう傾向が年々強くなっていると感じるのである。