コラム232 <物知り>
もっと判りやすくいえば、脳細胞だけは鍛えられたが、それが精神に到(いた)らず、身体化されぬままに来てしまったからなのだろうか。そのことに気づかず物知りのまま生涯を送るとすれば、その溜め込んだ知識は何のためのものであったろうか。私は最近そんなことをよく思うようになった。
特に進学のため、資格取得のための勉強の傾向が強くなってそれが長く続いたからなおさらである。「学びの本質は人間をつくり上げるためにあり」と考えれば、血肉化されない知識にどれ程の意味があるのだろう。知る病と書いて痴(おろか)と読ますなど何と絶妙なことだろう。
知らなくていいことを多く知り、人間向上のために知るべきことを知らない、知ろうともしない———こういう傾向が年々強くなっていると感じるのである。