2021年8月9日月曜日

 コラム229 <自慢について>

 「自慢」というものはどのようなものであっても快いものではない。過ぎれば時に醜くさえある。自慢している本人はいい気分で書いたり、語ったりしているのだろうが、読み、聞かせられる側には決して心地よく響かない。
 真に偉い人というのは自慢ということはしないものだろうし、自慢したがり屋を出来た人間だと感じる人もいないだろう。しかし残念ながら人間は多く自慢したがるものである。聞いていてなぜそれを快く感じないのだろう。それは己の内にある慢心をさらに着飾って他人に見せようとするからであろうと思う。そんな自慢話より、もっと真に迫った人間の話が聞きたいし、私は住宅を業とする人間だから住宅や生活の美についてもっと肉迫した話を聞きたいものだと思う。
 
「見せびらかす」という言葉がある。大げさ、上から目線、偉(えら)ぶる、高飛車、といった言葉も同じ範中に入る言葉であろう。「自慢」とは自分のことや自分に関係のあることを他人に誇ること(『辞林
21』)とある。これだけなら印象のいいことも悪いこともあるだろう。だが自慢たらしいとなると真実味が無い分、印象を悪くする。少なくともこれまでの日本人の美徳には無かったことだ。74才まで生きてきて、恥ずかしながら私も随分自慢しながら生きてきたように思う。これからの人生は極力自慢無きようありのままを心掛けて生きていこうと思う。人間の浅はかさなど、どうあがいてもすぐ透けて見えるものである。毎日山中で眺めている野の花や樹々たちの素朴さに学んで日本人の美徳というものをもう一度見つめ直してみたいものだと思う。人生をかけて地味に、奥床しく、いぶし銀のような味わいのある存在になりたいものだ。これもまた夢物語か。