コラム140 <鹿教湯(温泉)病院>
新しく転院した鹿教湯病院での3ヶ月間のリハビリは私にとってかけがえのないものとなった。
松戸リハでは理学療法士(PT)のAさんを中心にしたチームで、感謝の言葉もない程懸命に取り組んでくれたが、途中急性胆のう炎を起こして「新東京病院」に転院を余儀なくされ、これでリハビリスケジュールとしては三週間程の狂いを生じた。順調に回復基調にあっただけに残念なことであった。あまりがまんし過ぎて胃に穴が開いたかのような激痛で、〝もう一日経っていたら敗血症になっていたところでしたよ。がまんも程々に!〟と注意された。
松戸リハを転院する頃には介助者付きという条件で一本杖で100メートルか150メートル(勿論足に装具を付けて)歩くのがやっとだったように思う。Aさんも三週間の予定外の転院を残念がっていたのがよく判った。もっといい状態で転院させたかったのであろう。
ここでは4階の病室と一階のリハビリルームの往き来は私の回復程度では安全のため担当セラピストが車椅子で送迎するのが定まりだった。だから私は病室で迎えに来てくれるのを待っていればよかったし、帰りも車椅子で送られるだけだった。終わりの頃には4階エレベーターから自分の部屋までは〝自分で帰れますよ〟といって自走したりもしたが……。
鹿教湯病院に転院して〝地獄の鹿教湯〟と呼ばれている意味を実感することになる。トレーニングがハードなんだろうな
位にしか思っていなかったが、入院した翌日のリハビリからびっくりした。私の病室は4階、リハビリルームは1階であるのは前病院と同じだったが(松戸リハではエレベーターを出るとすぐ目の前がリハ室だった)、大きく違ったのは内容だった。何せ60年の間に増築に増築を重ねてきたという古い病院だからエレベーターを出てからリハ室まで歩かなければならない。
しかも 〝4階の病室から1階のリハビリルームまでは自分で歩いて来て下さい〟
〝ハァ?車椅子でなくて、杖ついて、一人で、ですか?〟
〝勿論!大丈夫!出来ますよ!〟
おそるおそるエレベーターで一階まで降り、リハ室までまだ不安の残る一本杖で歩いていくのです。初日からですよ。
おそらく同じ日の午後だったと思うが、理学療法士(PT)のSさんが
〝杖なしで歩いてみましょう〟
〝ハァ?杖なしで、ですか?〟
しかも右手に八分目位水の入ったガラスコップを持たされてこぼさないように……それで歩けというんだから
やるしかない。
〝酒なら違うんだけどなぁ…〟 などと冗談を言いながら歩いたら、それが不思議に出来たのです。ヨタヨタ
しながらも水もこぼさずに……。リハ室内の事務室ワンブロックを一廻りしたのですから距離にして5~60メートルはあったでしょう。驚いたのはむこうじゃなくてこっちだ。
午前の少しの時間でベテランのセラピストはどの程度までできるか見抜いているんですね。こうして理学療法士のSさんと作業療法士のNさんを中心にしたリハビリが始まり、以後ここでの3ヶ月間は私にとって忘れ難いものとなりました。
つくりこそ古く、病室もいい部屋とは言い難いものでしたが豊かな自然環境に恵まれ、朝には野鳥たちのさえずりに目ざめ、毎朝七時には近くの山寺の鐘が ゴ~ン ゴ~ン と山中に響き、職員達も皆素朴で親切でした。ハードなトレーニングながらも良好な人間関係が築かれ、厳しい中にも充実したリハビリ生活が続きました。この間、患者にとって、いや人間にとって何が一番大切なものか、改めて考えさせられました。
退院の日には涙がこみ上げ、食卓仲間達も皆別れのあいさつに来てくれました。こうして鹿教湯は私にとって第二の故郷と呼ぶべきところとなったのです。