美をもって 高貴なる友と語り合うことなり――
好きな器は、私の友である。
独り食事をする時、この友の存在はどれほど大きいことだろう。
これが気に入りもしない粗末な器であったなら、どんなに無味なことであったろうとしばしば思わせられる。特別贅沢な食材になど恵まれずとも、器の美に慰められる。自然器にふさわしいように美しく盛り付けようとする。うまくいけば用を超え、食材と器と私はようやく一体となる。静かな調和である。
山中での今晩の食事は、秋田の従姉が送ってくれたオホーツク海産の紅塩鮭、前橋のSさんが送ってくれた田むら屋の味噌漬、それに地元原村産のブロッコリー・・・・・これに白い御飯と味噌汁。
簡素なものである。これをどうでもいい器で食していたのでは、侘びしさこの上無いだろう。だが器達はこの寂しさを忘れさせてくれる。
鮭の紅色には若い頃の宮崎守旦さんが焼いた染付角皿を、
味噌漬の艶やかなベッコウ色には明治印判手浅鉢を、
それにブロッコリーの鮮やかなグリーンには明るい青磁色の中皿を、
といった具合である。
粉引の部類に入るのか、ごはんは角田武さんの白釉のかかった飯椀、味噌汁は本間幸夫さんの朱漆の汁椀、最後は緑茶で締めくくりだ。
特に晩秋、樹々も葉を落とし冬を待つばかりの底冷えの夜など、こんなことでもなければ何とも寂しいものである。気に入った器と共にあることで寂しさが「寂び」となり、美しく感じることによって侘びしさが「侘び」に変わる。こうしてはじめて閑居の情趣を味わうことができる。侘びる、寂びるとはかくの如く一種積極・闊達な心境なのである。