2017年9月4日月曜日

コラム 105  便利も考えものだ  

私の山小屋には電話が無いことになっている。あっても掛けるだけの電話であって、外からは通じないのだといえば、そんな都合のいい電話があるのかと訝(いぶか)りながらも信じてくれた。
だが、最近は掛けるだけのはずが、かけた先から電話がかかってくる。留守のはずだった先方がなぜ私の電話を・・・・・?。 教えてもいない電話を相手が知っている・・・・・。 


最初は不思議だった。
こんな調子で掛ける度にこちらの番号が割れたのだから、静寂の中に暮らすはずの生活が、だいぶ始末の悪いことになってしまった。
私のような心境の者はそう多くはないようで、相手も電話があるんだからと、掛けることに何ら躊躇(ちゅうちょ)が無い。
こういう類の人間には「非通知」といって、かける前に184(イ・ヤ・ヨ?―きっとそうだ!)を押す手段が備わっているという。私に言わせれば、通知したい人のみが114(イイヨ)か何かを押すというのが真っ当なあり方だと思うが、便利を喜ぶ世の中にそういう文句を言う人はもう大勢を占めないのだろう。
こちらが望んでもいないのに、掛けた先すべてに知れるというのでは腹立たしいし、第一これなどプライバシーの侵害に当たるのではないかと思う。それにこちらが掛けているのに「非通知」とは、どこか失礼な感がつきまとう。幼い頃の〝卑怯者、名を名乗れ!〟の名残りであるか。 

いずれにせよ、この手の便利は際限なく突き進む。
  〝Docomo かしこも ケータイ電話〟
なんて言ってるうちに、すっかり
  〝メール メールで 気がMail
時代になってしまった。
人間こんな調子で、ほんとうに幸せに向かっていくんだろうか?
まるで静寂を欠いた世の中にあって、今これを守ろうとすれば余程の決心と覚悟と策が要る。