2021年5月24日月曜日

 コラム218 <>

  杉を自信をもって使えるようになったのは50才を過ぎてからである、と先に出版した本の中にも書いたような気がする。しかし待てよ。この〝自信をもって〟という表現は言い過ぎだ。正しくはどういうことなのかと自分の心の中でよく咀嚼(そしゃく)して考えてみた。
 ・それまで安心して使える自信が無かったものがどうにか、不安なく使えるようになった……というようなことかな
 ・杉という材を杉に喜んでもらえるような使い方がやっとできるようになった……というようなことかな 

 赤身や柾の良材ならば日本建築、特に数寄屋建築にならそう心配はないが、一般住宅に使えるのは節も時々あり、赤身・白太のまじった俗に源平と呼ばれる並材だ。こうなると構成に厳しさを欠くと、途端に野暮臭い空間となる。これが杉使用の難しさだ。杉だらけのような秋田県湯沢市~横手市で生まれ育った人間がなぜ杉に自信が持てないのか自分でも不思議だったが田舎育ちなのにこの野暮臭さをどこかで嫌っている———さりとて、それを払拭(ふっしょく)するだけの厳しい構成力がいまだ自分に身についていないことを身体は知っていたのだろう……と今にして思う。皆平気で杉を使うが、日本の代表的木材だから当然といってそれで済ませている。私はどうしても杉に魅力を感じることができなかったのは小さい時から見過ぎてきたということもあるのかもしれない。あるいは、私の求めているような杉仕様の美しい木造住宅に出会ってこなかったということもあるのかもしれない。しかし、油断大敵———スタッフは予算や入手のしやすさなどで割と気楽に材種の選択をしているがきっとこの怖さを知らないままだ。私にだってまだまだ自信と呼べるものはない。寸法に対する繊細な感覚、部材のより厳しい美的構成力を鍛え上げなければ「自信」という言葉は使えない、と改めて思った。夢にまでそれが出てきた。