2021年4月5日月曜日

 

コラム211 <住宅設計者としての素質>

  これについて天性の造形センスだのという人がいるかもしれない。私はそういうこともあるにはあるが、それ以前に機転が利くといったことがあるのではないかと思うようになった。機転が利くということは、人の気持、思っていること、求めていることを直感的に察することができるという意味で素質の第一に挙げたいのである。

  私はこのことを考えるに今は亡き名棟梁高橋勉さんのことを思い出す。大分前のことになるが、ある大学生(A君)が大学を辞めて大工職人になりたいと言って、修行先を紹介してほしいと東京本部を訪ねてきた。今は職人のなり手がいないとよく言われるが、伝統の技を身につけようとすると、実はなり手よりもさらに育て手がいないことが判ってくる。
 それはそれとして、育てる側と育てられる側とには世代間の隔差もあるし、生まれ育った時代も環境も違うから、さてどうしたものかと思ったが、どんなことがあっても少なくとも5年間はやめないという条件付で、私とのつき合いも古く、腕も気性もよく判っている高橋勉棟梁に相談し、受け入れてもらった。A君にとっては人生の方向を大きく変えようというのだから勇気のいる決断であったろうし、その分真剣でもあった。
 半年もしないうちに勉さんから電話が入った。
〝ありゃあ、ダメだ!〟
なぜダメだと判断したのか聞いておきたかった。その時に第一にあげたのが、
〝気がきかねぇ!〟だった。
例えば、〝カンナ台で板にカンナをかけてるだろう。手元に引いてくると先端の方がゆれる。普通ならそこを押さえるか、押さえましょうか位言うのが普通ってもんだ。それがそばにボケーッと突っ立ったまま眺めてるだけなんだよ。〝押さえろ!〟と言えば〝ハイ〟と押さえるよ。しかし今度は放して欲しい時も押さえたままだから〝おい、放せ!〟と言わなきゃ放さない。あんなんじゃ職人にはなれやしねえ〟とのことだった。
私もなるほど、と思った。これは大工職人に限らず、設計者とて同じことだと思った。相手の求めを言われずとも察する感覚というものはどこでどう育くまれるものだろう。「指示待ち人間」などという言葉が使われ始めたのはもう随分前のことだ。こうした状態は恵まれ過ぎ、親の過保護、過干渉が影響しているにことにまちがいはないだろう。気を利かせなければならない場面が少ない中で育ってくるのだろう。近年機転が利く人間、気配りのできる人間がめっきり減ったと感じるのは私ばかりではないだろう。人間のロボット化である。 

勉さんからの電話から数日してA君が本部を訪ねてきた。そしてこのように訴えた。
 〝ボケーッと突っ立ってんじゃないよ!と棟梁に怒鳴られてもボク、どうしていいか判らないんです……〟と目に涙を浮かべている。
 さすがに私もこれは職人は無理だと思った。この事件の数年後に同じく大工職人になりたいといって訪ねてきた20歳足らずの若者T君はこれはりっぱな職人になれる、と直感させる何かがあった。一通り話終えたら私が出した茶碗をさっさと台所へ片付け、一連の身のこなしのリズムがよかった。場所は関西でもかまわないというので関西の住まい塾で最も実績のある奈良の巽棟梁にあずかってもらった。予想通りT君は順調に成長し45年でほぼ一人前の大工職人に育った。この差は、やはり、気がきくこと、細やかな気配り、気働きの差が大きかったように思う。弟子を育てるにじょうずな人、へたな人もいるにはいるが同じように育てられる側にも向き不向きがある。どんな仕事にも共通しているように思うが、育つかどうかの第一要件はこの〝機転が利くかどうかの気働き〟にあるように思う。