2021年1月18日月曜日

 コラム200 <便利は忙しさを増幅するという原理>

  持たない、と決めていたケータイ電話を持つ羽目になった。入院して掛けるも受けるもできなくなって持たざるを得なくなったからである。掛ける/受ける、と着信履歴/発信履歴がやっと使いこなせるようになったと思ったら、auから〝あなたのケータイはタイプが旧くて数年後には使えなくなります〟と通知が来た。どういうこっちゃ!こちらは何も困っていないし、これで十分だというのに……。勿論便利といえば便利にはなったがその後、確実に忙しさも増した。生活のリズムが確実に気忙(きぜわ)しくなった。ケータイを一定の場所に置いてそこにじっと座っている訳にはいかない。特に片マヒの私には室内の移動も大変である。ベッドに横になっている時などは起き上がり、装具を付け、クツを履いて、あっちへヨッチヨッチ、こっちへヨッチヨッチ、ケータイにたどり着いた頃には切れてしまうから、また掛け直さなければならない。 

 便利になればその分、時間も浮いて忙しさから少しずつ解放されそうなものだがそうはいかないのには原理がある。例えば、私は秋田県の湯沢市に生まれたが、小さい頃には東京まで寝台特急で9時間程度かかったものだった。それが、今や新幹線で3時間で着くようになった。ここで浮いた6時間はどう使われているのだろうか。ゆっくり本でも読み、音楽など聴いて感動などしていられるか?せめても昼寝でもして休息に当てられるかといえば、そういう訳にはいかない。大方浮いた6時間をせわしなくなった社会のリズムの中でさらに新しい仕事で埋め込んでいく。これが便利になればなる程、さらに忙しくなっていく原理だ。秋田銀行に勤めていた義兄の時代は仙台に出張となれば、一泊して帰るのが当然だったそうだ。その息子が今同じ職についているが一泊どころではない。用を終えたらそそくさと日帰りである。ある大手出版社の営業マンも同じようなことを言っていた。地方の書店まわりをする時は一泊して、店長はじめ仲間達と一杯やりながら色々雑談に花を咲かせたものだという。私が思うにその雑談の中にこそ、大切な人間模様が生まれ、知恵も人間関係も育まれていったものではないかと思う。便利に注意せよ!多忙に注意せよ!気忙(きぜわ)しい生活の中からは、特に人間的なものは何も生まれないのだから……。これまでのコラム(コラム122、コラム156)で何度か〝忙とは心を滅(亡)ぼす意なり〟と書いてきた。このことを自覚している人は意外に少ないのではないか。その忙と便利は密接に関係している。