2019年9月16日月曜日


コラム 130  久々のブログ再開 > 

私のブログ『―信州八ヶ岳―山中日誌』は129回で途絶えた。20182月に脳出血で倒れて左半身マヒとなり、続けることができなくなったからである。あれから約一年半余り、数え切れない程多くの人たちに支えられながらリハビリに努めてきた。
寝返りもうてず自分の左腕がどこにあるかも判らないような当初の状態よりは格段によくなっているが、御世話になった方々への御恩返しが何百分の一でもできる程度までには回復したいという自分の思いに比すれば恢復の程度は捗々しくない。右手が動くのだから字や文章位書けそうなものだが脳の病はそう単純ではない。

私のやられた部位は視床というところだが、それがどの辺にあるのか私は知らない。が、どうも色々なところへの運動神経の通過点になっているようで、それ故左半身の各所に影響が及ぶことになった。幸い予想された言語への障害は、自分にはもつれる感があるが、他人にはそれ程には聞こえないらしく、言語のリハビリも早々に卒業となった。今回初めて知ったのであるが、舌の神経も中心から左・右に分かれているとのことで、左側にマヒ状態が残った。それと関連しているのか口の中全体が軽く火傷を負ったような感触となり、口腔外科では「舌痛症(ぜっつうしょう)」と診断された。病名はあるが原因がはっきりしていないとのことで治療法もこれといって無し。神経から来ているのだろうと言われているとのことであるから今回の病と関連していることは確かなようだ。それ故熱いものは自然に遠ざけることとなり、自ずと味覚にも影響が及ぶこととなった。それでもうまいものはうまいし、まずいものはまずいと判別がつく程度に留まっているから・・・・・まあ いいか。
今最も強く残っている後遺症は左半身、特に肩から腕・指先までのジンジンする強烈なシビレである。それが左脚にも影響を与えている。薬とリハビリによって少しずつでも快方に向かえばいいのだが、こればかりは逆に段階的に強くなって時々気が折れそうになる。強い日は気力と体力がこのシビレに吸い取られていくような気分になる。そしてひどく疲れる。こういう状態ではインスピレーションとエネルギーの集中を要する文章などはなかなか書けないものだ。シビレの専門医にも幾人か診て戴いたが、結果は同じであった。〝シビレとはつき合っていくしかありませんねえ。そう覚悟して下さい〟・・・・・覚悟しろと言われてもねえ・・・・・。
 志木に帰って最初に行った病院が「いしもと脳神経外科」。退院後二ヶ月程してのことである。いしもと先生曰く。
〝お酒は飲んでないでしょうねえ〟
〝いや、退院の日からやってますよ〟
〝ダメじゃないですか、退院の時に医師から言われませんでしたか?発症から1年はダメだって〟
〝いや、一度も言われたことないなあ・・・・・〟
〝どうしてかなあ・・・・・〟と私の顔をまじまじと眺めながらポツリ・・・・・
〝言ってもムダだ、と思ったのかな?・・・・・〟
そういえば、リハビリ入院していた鹿教湯病院の主治医の先生は人間的で心の広いすばらしい方だった。
〝1年といえばもうすぐじゃないですか〟の私の言葉に
〝見切り発車したんだから秋位までは控え目にしましょうね〟
だから今は控え目だ。

発症後半年以後はリハビリの効果は上がらない、というのが定説になっているようだが、多くの体験者が語るところによれば、それは違う。脚に装具をつけながらのことだが、私も500メートル、1000メートルと歩けるようになったのは半年過ぎてからである。
リハビリのセラピスト達のおかげで歩行や手の動きなど少しずつ回復しているが諦めずに今できることに少しずつ挑戦してやがてブログが続けられていた時のように自然が与えてくれる無限のインスピレーションに充たされながら文を書き続けたいと望んでいる。

美しいものが沢山あるというのに写真も今は自分の手で撮れないのが無念だ。レンズに納めたい感動的な草花や自然界の光景に出会うと、思うように動かない身体がもどかしい。
焦らないように、苛立たないように、一歩ずつ、半歩ずつ、薄皮を一枚一枚はぐような気持で・・・・・と多くの人に教えられ、諭された。

今後しばらくは病床日誌のような形で患者としてあるいは病室で思い感じたことなどを書き記していこうと思う。