2016年3月14日月曜日


コラム 28 <私が今、ここに存在するには・・・・・>  

 最近、ある雑誌で「日本人の使う箸で一番位の高いのは、杉で作った両細八寸」であると知った。『図書』2015.1月号 岩波書店:対談 村田吉弘(日本料理)/巽好幸(地球科学)
 その中で村田さんは次のように語っている。
 〝両細ですから両方使えるから便利やな、というのと違ごうて片方は自分のための箸、片方は自分がここにいるために過去に存在した何万人のご先祖のための箸です。ご先祖と一緒に自分の命を養う・・・・・〟
日本人の多くがこうした心掛で生きていたなら、少しは両親やじいさん、ばあさんのことをもっと大切にしようと思うであろうし、工務店の若社長が現役を引退した先代にもう用はないとばかりに横柄な口をきいているような光景に出会うこともないであろうに、と思われる。 


自分が今ここにいるためには、過去幾人の先祖が必要となるのだろう。私が存在するためには少なくとも二人の親が必要だ。その親にもそれぞれ二人の親が要る。仮に一世代30年として計算を繰り返していくとどのようなことになるか。ざっとのことだから、現在を西暦2000年とすると以下のようになる。
            <西暦>      <必要とされる先祖の人数:累計>
  ※1 19代前 570年前 1430年(室町中期)      1,048,574
      20代前 600年前 1400年(室町前期)       2,097,150
  ※2 25代前 750年前 1250年(鎌倉中期)   134,217,726
        30代前 900年前 1100年(平安後期) 2,147,483,634
  ※3 31代前 930年前 1070年(平安後期) 4,294,967,268
                      (参考『てくてく』2015.1 28Roots
 私は秋田県に生まれた。驚いたことに、19代前(※1)ですでに秋田県の現全人口123万人に近い先祖が必要となる計算だ。さらに25代前(※2)まで遡ると日本の全人口12千万人を上回り、さらに31代前(※3)ともなると現地球全人口50億人にほぼ近づくことになる。
 ※1の室町中期というと、我々のよく知る人の名を挙げると一休さん(13941481)が生きていた時代である。
 ※2の鎌倉中期は『新古今和歌集』成立が1205年とされているからその少し後、私の知っている句を当ててみると
 藤原家隆(11581237)が
   〝花のみを待つらん人に山里の
        雪間の草の春をみせばや〟
と詠み
藤原定家(11621241)が
   〝みわたせば花も紅葉もなかりけり
         浦の苫屋の秋の夕暮れ〟
と詠んでいた頃のことである。
 この頃まで遡れば私の先祖は現在の日本の全人口を超えてしまうのである。
 また、平安後期の1100年頃というのは西行(11181190)が生きていた時代であり、
〝心なき身にもあはれは知られけり
鴫立つ沢の秋の夕暮れ〟
の歌が生まれ出た頃である。さらに『源氏物語』の起筆が10015年の間とされているからその頃まで遡れば私一人が存在するために、現地球人口50億人をはるかに超える先祖が必要とされることになる。何とも想像を絶する話ではないか。

 人間の生命が幾世代遡れるものか私には判らない。唯物思想が主流を占める現代では、自分の命は自分が死ねば消滅すると考える人も多い。それだから自分の命を自分がどうしようと勝手だと考える人もいる。「永遠の命」などという言葉は宗教上のつくり話だと考えている人も多い。しかし果たしてそうだろうか?
 脈々と続いてきたこの生命の連鎖と生命そのものに関する普遍の真理を、軽はずみにも浅はかな人智によって断定することは避けなければならないと思う。生命の脈動というものは我々人間の想像をはるかに超えた世界のものなのだから・・・・・。