2024年11月18日月曜日

 コラム400 <金の滴・銀の滴> 


 ある日雨上がりに太陽が西に傾きかけた頃、樹間から橙色の光が一筋差し込んできた。葉先に残っていた無数の滴(しずく)が、まるでダイヤモンドのように一斉に輝き始めた。その光景を眺めながら私はすぐに知里幸恵さんが遺した『アイヌ神謡集』のあの一節を思い浮かべた。


 〝金の滴(しずく)降る降るまわりに・・・〟


 それから二週間程経ったある日、太陽が雲間から出たり入ったりして青空と白い雲が空を分け会っていた時、私はデッキに出て椅子に座って空を眺めていた。上方には白樺の小さな葉が風にそよいで揺れていた。そのうち風が少し強くなり木の葉が銀色に輝きはじめ、風と共にすべての葉がさざ波のように一斉に、銀色の葉に変わった。その時もあの一節が思い浮かんだ。

 

 〝銀の滴(しずく)降る降るまわりに・・・〟


 アイヌ人が目にし、その感動を言葉に残して言い伝えてきた光景と、私は今同じものを見ているのだと、思った。写真に残したかったが、無念にも左腕が動かない。しかしあの輝きの残像は、しっかりと脳裡(のうり)に刻まれた。(8月上旬記す)





2024年11月11日月曜日

 コラム399 <ボールペンはどこ?> 


 毎日使っているボールペンが見当たらなくなり、ヘルパーさんに買ってきてもらいました。ボールペンって、ボールのようにコロコロころがるからボールペン、って言うの?





2024年11月4日月曜日

コラム398 <ああせいこうせいと、云うばかりなり厚生省> 


 介護保険を利用するようになってから、もう6年になる。介護の世界で働く人達の不自由さと窮屈さを見たり聞いたりするようになって、改めなければならない点が数多くある、と思い始めた。

 それはケアマネージャーやヘルパーさん達の処遇改善の問題ばかりではない。


 ・行った先でトイレを借りてはいけない。(そんなもの、いつ急に催すかわからないではないか!)

 ・お茶やお菓子を出されても頂いてはならない。勿論、感謝の気持のものであっても、

  もらい物をしてはならない。

 ・たまには一緒に食事を・・・などということなど以(もっ)ての外。  (まるで教師の家庭訪問のようだな!)

 ・頼まれた買物は一旦その家に着いてから、改めて行く。(来る途中にスーパーマーケットやその他の店があるというのに、この無駄加減、時間の浪費!)

 ・少し時間が余ったからと汚れに気付いたガラス窓を拭くのもダメ。

 ・こうしたことにまつわる人間関係のもつれ。


等々・・・それと、ケアマネージャーと看護師さんの月一回の訪問の義務付けは少なくとも私には無意味・不要である。必要な人のところにだけ行けばいい。それでなくともケアマネージャーは多忙を極めているのだから・・・。

 しまりのない状態にならないように、一定の規則や基準を示すまではいいが、自由の余地も残しておかないと、やる方は窮屈でたまらない。時間が余ったからとやってやりたいこともあるのに、やれないのだから・・・気の利(き)く人にとっては特にそうだ。


 この窮屈な世界に嫌気がさして辞(や)めたヘルパーさんは沢山いるに違いない。私自身も幾人か知っている。それを国も国民の大方も、報酬の少なさが定着率の悪さの原因だとばかり思っている。

 そういう人もいるだろうが、元々介護の仕事につこうとする人は生活する上で困難な事情をかかえている人を手助けしたいと思って、この領域の職につく人が多いと私は感じる。人間関係他何かと難しい問題を抱(かか)えながらも、少ない報酬でがんばっている人が多いと私は思う。

 それをどういう人々がどういう形で審議し、出されているものやら厚生省からの細々とした指示・規則の中には、余計かつ不必要かつ異常と思われることが随分ある。

 最大の問題は審議委員の中に現場で実際に働いている人間が不在であることである。現場から離れた高位(少なくとも彼らはそう思っている)の人間達でものごとが決定され指示されていく、という点にある。だから現場の経験と生の声が反映されず、活かされない結果となるのである。

 そこで私が思い付いたのが、川柳くずれの上記タイトルである。


 〝ああせいこうせいと、云うばかりなり厚生省〟

 


 




 

 


2024年10月28日月曜日

 コラム397 <対立②> 


 約100年前、あるアイヌの少女が一冊の本を残して世を去りました。その名は知里幸恵(ちりゆきえ)、19才。本の名は『アイヌ神謡集』。文字を持たなかったアイヌの少女が一冊の本に仕立てるには大変な苦労だったでしょう。その本の始まりは次の一文で始まります。


 〝その昔この広い北海道は、私たちの先祖の自由の天地でありました。〟


そして『神謡集』そのもののはじまりは次の文で始まります。


 〝銀の滴降る降るまわりに、金の滴降る降るまわりに・・・〟


何と美しい言葉でしょう。


 日本の歴史を振り返るだけでも争いをしないという決心の元でなら、相互いに助け合って、相入れない考えだって学び合うことによって認め合うことができます。互いの世界観を学び合うことによって成長することができます。これまで地球上に送り出された人間の命はいか程になるのでしょう。それでもうり二つの人間は存在しないのです。

 この事実からしても違いに意味を見い出すことこそ、宇宙の意志に適うというものではないでしょうか?それを神の意志と呼ぼうが、自然の意志と呼ぼうが、仏の意志と呼ぼうが、違い故に対立するなど、その意志に全く叛(そむ)くことになるとは思いませんか?






2024年10月21日月曜日

 コラム396 <対立①> 


 神や仏が何であるかを言い争ってみて、何になるのですか?言い争ってみて明確に判るのですか?存在するのしないの、形があるの無いのと何千年、いやそれよりはるかに長い言い争いの歴史の中で神学者や仏教学者にそれが判ったのですか?そうした果てしない議論はよしましょう。


 宇宙を司る何か、エネルギーのような意志が遍在していることは確かなのですから・・・それで十分ではありませんか。その存在を信じるかどうかはその人の責任を伴う自由というものです。私は学んで、人と出会い、経験して信じるようになりましたが、宗教上の対立、信仰上の、果ては殺し合いにまで発展する果てしない対立程、宇宙と言ってもいい、自然と言ってもいい、その意志に背(そむ)くことは無いのではありませんか?


 民族の違いによる対立もそうです。その大きな意志によって、さまざまな民族が生まれ出たのですから・・・。大民族だろうが、少数民族だろうが、不要な民族などひとつもないのです。


 〝我々日本人は単一民族だ〟などと未だ平気で主張する人々がいます。しかし我々は日本の先住民族アイヌを抑圧し、差別し、同化政策によって言葉を失わしめ、和名に変えさせたた歴史を背負っています。西へ北へと追いやったのです。

 長い間アイヌ問題に取り組んでこられた北海道新聞の深尾加那さんと一緒にアイヌの家族に招かれた夕食の席で、少し酒がまわり始めた頃、私は〝我々日本人は〟と言いかけた途端、その家の長に〝あなた方は日本人ではない。本当の日本人は我々で、あなた方は(我々を侵略した)和人である〟と面と向かって言われたことがあります。





2024年10月14日月曜日

 コラム395 <医師は何を診るか:『医者ともあろうものが』現代版> 


 最近の医師は病を見て、人を見ない。

 最近の医師はパソコンを見て、人を見ない。


 これなど最初の頃は〝おいおい、患者はこっちだよ!〟と言いたくなったものだが、最近はどこでもそうだからもう慣れっこになって、何とも感じなくなった。それでも時々人の話題に登るところをみると、まだ違和感を感じている人は私をはじめ少なくないということなのだろう。


 整形外科に行く場合はどこかが痛くて行く場合が多いだろうが、医師は検査をレントゲン・CT・MRIなどの機械にまかせて出てきた画像を見て、人を見ることもなく、身体に触るでもなく、画像に特別問題が無ければ、薬を出して終わりだ。少なくとも私は整形外科で医師に触れられたことが無い。先端医療技術が問題だというのではない。相手は患者という一人一人違った人間なのだということが見逃されているところが問題だと思うのだ。


 医療の技術的進歩は誰も疑わないだろう。現代のこのような傾向で失われたものはないのか、と私のようなタイプの人間は疑念を持つ。

 私の親しかった名棟梁は足場に胸を打って、ついでに診てもらったら小さなガンが見つかった。まだまだ現役バリバリの棟梁だったが、手術時どこかの神経を切ってしまったらしく、生涯仕事が出来なくなった。その後も月一度の我々の勉強会や見学会には必ずと言っていい程出席し、あれ程好きだった酒も一滴も飲まずに、復帰を念ったがついにその夢はかなわずに亡くなった。医師がこの人が名棟梁だと知っていたら手術のやり方も違っていたかもしれない。失われたものは人間らしさ、人間っぽさ、人間を観る眼だ。


 昔懐かしく思われる胸やお腹に手を当てて甲をトントンやるあれは何だったのか。聴診器を首から下げているお医者さんに出会うと未だにホッとする。当ててくれたりすると私の身体を看てくれているようでうれしい気分になる。患者の目や顔の色艶、表情から読み取れるものはないのか。そうしたものに、病は表れないものだろうか?

 

 いかに高度な検査機械の時代となっても、生前何度かお会いしたことのある見川鯛山先生のような町医者は、もう出番がないのだろうか。時々はああいう人間っぽいお医者さんにいて欲しいものだと思われる。

 

 そもそも患者を看るの「看」という字は手と目で成り立っているではないか。そんなことは気のせいだ、と言う人がいるかもしれない。しかし、私のように体が不自由になった身にはこの「気」こそが殊の外大切なのだ。

 人間はいずれ必ず死を迎えることを考えれば、人間的な医師の元で、人間的な医療を受けて死期を迎えたいものだと思う。それが今回のタイトルを『医者ともあろうものが』現代版とした理由である。








2024年10月7日月曜日

 コラム394 <見川鯛山作『医者ともあろうものが』> 


 学生時代、見川鯛山氏作の『医者ともあろうものが』を読みながら笑いが止まらなくなり、途中で電車から飛び出したことがある。そのあともNHKのテレビ番組で森繁久彌氏による朗読がなされた。これがまた相性がぴったりで、後に世界文化社から録音テープが発売された。まわりの録音エンジニア達も笑いを抑えきれなかったらしく、その様子さえ録音されている。自然描写の見事さといい、人生のおかしみの表現の巧みさといい、これ以来、私にとって忘れられない一冊になった。


 それから15年程経って、私は住まい塾運動をスタートした。ある日、中年の女性が本部を訪ねて来られた。出身は那須高原の湯元温泉だという。見川鯛山氏も那須湯元温泉で開業医をしていたはずだから、私はすかさず聞いた。


 〝湯元温泉には面白い作家のお医者さんがいるでしょう?見川鯛山さんという・・・〟


その女性は即座に答えた。


 〝います、います、ヘンな人がね・・・それ、私の父です〟


さすがに私もびっくりした。縁というのは不思議なものだ。以来、見川氏の長女家族と次女家族の二軒の家を住まい塾で設計することになった。

 当然見川鯛山氏にも幾度かお会いする機会に恵まれた。だいぶ古民家が御好きなようで、設計着手前から大きな蔵戸や、もらい受ける古民家が決まっていて、実測に伺ったり、この大戸をどこに有効に使おうかと頭をひねったりして想い出深い、楽しい仕事となった。


 本の内容から想像する作家像とは大分違って、本人はいたってまじめで実直かつ几帳面な方なのだろう。10冊程の自作の著書すべてにきっちりとサインして私に下さった。

 今もどこかの文庫に収まっているかもしれないし(一時期はたしか集英社文庫に収められていた)新本が手に入らなかったらぜひ中古本でも探して読まれるといい。この暗い時代にユーモアたっぷりの平和な傑作集を遺(のこ)してくれて、見川先生、ありがとう!と今でも思っている。