2025年9月1日月曜日

 コラム433 <金(カネ)と戦争> 


 戦争は数々の惨禍を残しているが、その裏では軍需産業によって巨額の利益を手中にしている者達がいる。そのことを誰も問題にしないが、今日財閥と呼ばれるようになったグループは裏にほとんどそうした歴史を背負っている。

 日本はチマチマした裏金問題で大騒ぎしているがそんな場合ではないだろう、と私は思う。軍需産業によって巨額の金を得て、戦争を喜ぶ人間がいる限り、戦争が人間の歴史から消え去ることはないだろう。彼らは〝喜んではいない、ただもたらされるだけだ〟と言う。ならば受注を断ればいいではないかと考えるが事はそう簡単ではない。松下幸之助氏が遺した戦時中の記録などを読むとそのことがよく判る。

 

 時々思うことがある。全世界の巨額の軍事予算を、平和な世界をつくるために使おうと各国が決心し、実践したなら、どんな変化が生まれるだろうか・・・と。こんな夢のようなことを考えている。


 しかしこれは決して夢ではない。戦争は決してしないと各国がそれこそ一勢に決心すればいいのだから・・・。

 事実、そのように決心している素朴な国は存在するし、日本の先住民族、アイヌも多少のいさかいはあったにせよ、酋長どうし徹底して話し合うことを基本にしていたようだ。


 しかし地球上の食糧自給があやしくなってきている現在、単純な方程式では解けぬ問題が多々あり、金の分配だけでは解決できぬ問題も人類は多く抱(かか)えることとなってしまった。


 〝かたつむりだって、たどりつくんだよ〟

 

仏画師安達原玄さんの言葉である。









2025年8月25日月曜日

 コラム432 <好きこそものの上手なれ> 


 2000年以上前の『論語』にも以下のようにあった。


 〝知る者は好きに如(し)かず〟


 もう少し詳しく見てみよう。


 〝子(孔子のこと:孔子は2500年程前の人である)曰(のたまわ)く。之を知る者は、之を好むに如かず、之を好む者はこれを楽しむ者に如かず〟


 如(し)かずとは適わないというような意味であろう。


 私は大学の建築科に入り、図学、設計製図に優れていた。図面を描き、表現するのも好きだったし、イメージするのも好きだった。だから楽しかった。楽し過ぎて卒業設計など提出期限に2ヶ月も遅れで出す始末だったが、卒業したのだから合格ということにしてくれたのだろう。

 私を助手に迎え入れた井口洋佑助教授(後に名誉教授)はその点で私を見誤ったのだ。これは天才的に優秀だ!私が優秀だったのはその助教授が担当していた科目だけだったのだから・・・。好きでもなく、あまり楽しくもない科目には懸命に取り組むことがなかったからである。この道理は少なくとも2500年も前から教えられていたことだった。人間にとっての真理はそう変わるものではないなあと今さらながらに思わせられるのである。






2025年8月18日月曜日

 コラム431 <一日一善> 


 〝一日一善〟と云う。

 入院している私は朝・昼・晩と三膳いただいているのだから〝一日三善〟を心掛けようとこう思った。

 入院中の患者さんにすれ違ったらあいさつでもほほえみでもいい、声を掛けるだけでもいい。ベッドに横になってリハビリを受けている人の動かぬようになった手を握って励ますだけでもいい。弓なりに曲がってしまった背骨をさすってやるだけでもいい。勿論少し心の交流ができた人に対してである。

 

 看護や介護の人達は見ていて大変だと思うが、長いこと接してきて、そういう現場の人達に一番大切なのは人としての優しい心根・真心であると思うようになった。入退院を繰り返して8年になる。そうした中で何よりもうれしく、苦しさを和らげてくれるのは人の心のやさしさであると確信するようになった。


 〝あの人が夜勤の時は気持ちが重くなる〟と言った人もいたし〝あの人が夜勤の時はナースコールを押さない〟という人もいた。そう言ってはいられない時もあるのだが、お互い思いやりを持って、医療・介護の現場をおだやかなものにしたいものだと思う。







2025年8月11日月曜日

 コラム430 <マンネリ──打てど響かぬ鐘の如くに──> 


  〝打てど響かぬ鐘は捨てられるのみ。〟

 

 何の職業でも基本的な知識と技術が必要なのはいうまでもない。若い内には当然不足が沢山ある。その不足を補うべく、10年、20年、30年と訓練と経験を積み重ねていくのである。


 だが、その後に待っている病がある。マンネリである。

 自分があたかも、もう出来上がっているかの如く錯覚し始める。もう学ぶことは自分には大してないという妄想と思い上がりである。

 素直な心を失い、学ぶ心を失い、向上心を失う。この驕(おご)りと慢心をこそマンネリという。もっと簡単な言葉でいえばうぬぼれ、である。


 生涯現役を理想のようにいう人は多いが、上記の心を失った人間に生涯現役をされたのではたまらない。死ぬまで仕事に携わろうというなら、その者にはあらゆる意味で生涯この向上心が必要である。向上心を失った心は素直さというたおやかな心の命を失ったも同然だからである。ベテランなどと呼ばれたりするが、勘違いしてはならない。マンネリ人間と同意かもしれないのだから・・・。

 逆にいえばマンネリに陥らぬ者をこそ天才と呼ぶべきだろう。私などはその好例である。笑うな!










2025年8月4日月曜日

 コラム429 <卑怯者(ひきょう)者!その②> 


 卑怯者!などと言われると屈辱的に胸にひびいたものだ。だから、日本人の特に男達の多くはそんな風に呼ばれない生き方をどこかで心がけてきたのではなかったか。だが今は卑怯者!などと言う言葉そのものが死語になっていて、仮にそう呼ばれるようなことがあっても恥に通じた感じ方はしないのではないか。直接対決したS社やN社との《住まい塾》の商標問題にしても、法文にさえ違反していなければ正義、しかも私なら恥と感じる事もせいいっぱい自分達に都合のいいように拡大解釈して、〝日本は法治国家なんだから、法に違反しなければいいではないか〟とさえ平然と言う。

 私は〝あなた方は法を守っているつもりのようだが、法文を守っているだけのことであって、私に言わせればあなた方は法文奴隷だ!〟とさえ言い返したものだ。裁判もその傾向が強い。宇宙に存在する法は正しくても、法文とは人間が作ったもので、しかも都合のいいように拡大解釈するような法文のどこに完全な正義があるか!と私は言いたい。

 

 そういう意味で今想い浮かんだ〝国破れて山河あり〟とかつては言ったが、今は〝国破れて惨禍あり〟だ。精神の状況において特にそれが言えるのである。






 『武士道』(新渡戸稲造)『代表的日本人』(内村鑑三)は元々英語で著されたものである。後に日本語訳となったが。なぜそうなったかは、特別の宗教観を持たぬ日本人は何を精神的規範として生きているのかという諸外国人の疑念に対して応えようとして懸命に書いたものだろう。そういう日本人がいたことを我々は忘れてはならないのではないか。





2025年7月28日月曜日

 コラム428 <卑怯者(ひきょう)者!その①> 



 裏金献金に始まり裏口入学、裏口就職等々・・・。卑怯者!などと呼ばれることは(武士道の)恥の文化にも通じ、特に男にとっては屈辱的に響く言葉であった。

 しかし今日そのような感覚、倫理観が男達にあるのだろうか?恥知らずという言葉と同時にこうした精神文化は脈々と受け継がれてきたはずなのに。






2025年7月21日月曜日

 コラム427 <ゲンコツが無くなり・・・> 


 地震・雷・火事・親爺と言われた昔が懐かしい。知ることと身につくことには大きな違いがある。身につくにはどなりつけられることや、時にはゲンコツを食らうこと位、必要である。


 私は自分が思っている以上にイタズラ好きの悪ガキであったようだから父親からも学校の先生からも何度かゲンコツを食らった。冬のストーブ用の薪(まき)でゴツンとやられたこともある。しばしばであったから先生達も手加減を覚えていた。が今はそんなことをしたら大変、とばかりに親爺も先生もさっぱり手を出さなくなったから、かえって危険である。手加減を知らぬからである。