2024年5月13日月曜日

 コラム373 <政治不信①> 


 事あるごとに政治家達は、決まり文句のように


  〝政治不信を招き・・・誠に申し訳ございません〟

  〝政治への信頼回復に・・・全力をあげて取り組みます〟


こうした物の言い方をする。

 しかしこれらの表現は全くおかしい。元あったものなら回復でもいいが、元々無かったものを回復とは、どういうことか。元々あったものは何かといえば政治不信そのものである。それを回復してどうしようというのか⁉

 この麻痺感覚が、同じような問題を繰り返す。国の将来に決定的な影響を及ぼすのは政治なのだから政治家達は日本の将来像に大局的見地から大志と夢を描いて取り組んで欲しいものだ。〝少年よ、大志を抱け!〟とはクラーク博士の言葉だが、大志を抱く必要があるのは少年だけではない。

 教育の無償化なども悪くはないが、それ以前に人間として歪み始めて久しい日本人をどのような方向に育み、育てていこうというのか?


 余談だが、地上に生を受ける第一義は〝生涯をかけて人間をつくり上げることにあり〟という明確な自覚が、国民にも、教育者にも、社会にも、家庭にも、まるで無くなってしまった。かつての日本はこうではなかった。現代では国も個人も人間をつくる前に、カネづくりに長(た)けた人間をつくり出すのに躍起になっている。学問が学歴のためになり、きわめて歪んだ価値観の社会をつくり出したと私の眼には写る。


 

 地上に生を受ける第二義は自分に与えられた使命を果たすことにある。それはその人その人に与えられた素質という形で示されている。こうした世界観は仏教によらず、キリスト教によらず同様のようだ。人間に与えられている素質は個々に皆違っている。自分に与えられた素質をのびのびと生かして人生を送ってほしいものだ。学業成績に長じるだけが能ではない。手でモノを作るに長じた人間は、その道に邁進(まいしん)すればいい。それでこそバランスのとれた社会と云えるのではないか。


  〝汝を愛せよ、そして汝を愛する如く隣人をも愛せよ〟


とはそのようなことを云うのであろう。