2024年4月29日月曜日

 コラム371 <真心(まごころ)は何よりの見舞いである> 


 形式に堕すというが、心無く、形ばかりの見舞いであったなら、電話であれ、手紙であれ、直接の見舞いであれ、それは余計なものだ。

 思いがあって、それが形を為すというのが本来であるけれど、器用な人間は思いがさほど無くとも、形をつくることができる。これは病に苦しんでいる人間にはかえって辛いことになる。


 だが思いが本物になる、と言葉で言うのは簡単だが、その場に及んで急に力んでも、その気になってもこればかりはかなわぬことだ。心だけでもいい、直接の関係でもいい、普段の関係の蓄積のみが、この本物を醸成する。

 

 哲学では精神、心理学では心、宗教学では魂というらしいが、愛情、優しさ、厳しさ等々、人間の内面にまつわる事柄が、身体化し、本物になるとは何とむずかしいことか。生涯をかけても何歩も前進できないもののように思う。

 私が脳出血に倒れて以来リハビリを重ねて約二年振りに本部に帰った時、あるスタッフは無言のうちに目に涙を滲ませながら迎えてくれた。25キロも痩(や)せたのだから、その風貌に涙したのかもしれないが、私にはそうは思われなかった。それぞれの思いで、これまで沢山の方々が見舞ってくれた。だが私の心に忘れ難く刻まれたのは、うっすらと滲ませた彼のあの涙であった。