コラム333 <ケータイ・スマホの蟻地獄①>
八ヶ岳山中ではヘルパーさんが土曜・日曜もなく毎日夕食づくりに来てくれる。標高1600メートルのこんな山の上まで、雨の日も風の日もイヤな顔ひとつせず元気にやって来てくれる。左半身マヒの私の日常生活は、もしもこういう人達がいてくれなければ、大きな困難を伴うことになる。
夕食づくりばかりではない。買物、掃除、洗濯、ゴミ捨て、重いものの移動等々、てきぱきとやってくれ感謝しかないのだが、ひとつだけ気になっていることがある。ヘルパーとして滞在している4時から5時半までの1時間半の間に、この静寂な山小屋の中で、〝チロン〟〝チロリン〟〝チロン〟・・・とスマホがしばしば音を立てるのである。しょっちゅう鳴るから、あの音は何ですか?、と聞いてみたらラインだという。グループラインというものをしているから色んな人からのメッセージが入ってくるのだそうだ。自分に関係のない無駄なことも多いだろうにこういう傾向が私にはたまらないのだが、このヘルパーさんは何ら気にする様子もない。仲間で情報共有することが、そんなにありがたいことなのか。それも無料だというのだからなお始末が悪い。スマホがどれ程便利なものかは私だって大体は知っている。一方で人間の思考能力は減退し、文字も読めない、書けない───文章能力も相当に衰えていると思って間違いない、第一直筆が全滅気味だ。
私はケータイを持たないと決めていた。皆持っているから用のある時には頼めばいい位の感覚でいた。そんな勝手な!と言うかもしれないが、そんな程度のことは勝手でいいのである。
一人の時何かあったらどうするのか、などと心配し始めたらキリがない。大勢の時でも起きる時は起きるのだ。それ位の覚悟は出来ている。
だがこうして続けてきた私の生活に異変が起きた。5年前の脳出血である。長期入院生活を余儀なくされ、新型コロナの影響も手伝って、誰とも会えない、外部との通信手段を失ってしまったのである。玄関脇に公衆電話があるとはいうものの、こちらは車椅子だし、玄関までが遠い。しかも10円玉専用の電話機ときている。左半身が殆ど動かない人間にどうやって使えというのか。
こうしてついにケータイを持たざるを得なくなったのである。私のケータイはガラパゴスケータイで、私は掛ける受けるの機能しか使わない。それからどうなったか、あれから5年、今山小屋に来て初めてその変化ぶりを痛感しているのである。(次号に続く)