2020年3月23日月曜日


コラム157 <散歩中に感じたこと①>

仕事場のすぐ近くに柳瀬川と新河岸川の二本の川が流れている。荒川の支流に当たるらしい。土手には枝ぶりのいい桜が続いていて、春には花見客で賑わう。自主トレをかねて散歩に出かけたのだが、近くにこんなにも美しい散歩コースがあるとは知らなかった。渡る橋の途中には、欄干に手を置きながら川の流れを見下ろしている人あり、身じろぎもせずはるか遠くに目をやっている人もいる。橋の上から鴨の泳ぎをじっと眺めている人もいる。人生のはかなさを思っているのだろうか……そんな風に見えるのは私の今日の心を映してのことかもしれない。
 表通りには車がひっきりなしに通っているのに、この散歩時間は静寂だった。二本の橋を渡り切って、すぐ右折して土手に入った。久々の散歩であった。ジョギング中の人もいれば、中には私のように身体が不自由になって懸命にがんばっている人もいる。途中のベンチに腰掛けてどこを見るでもなく、ただただ眼前の景色に目を任せている人もいる。何を思っているのだろうか。
 身体の状況が変われば、心に映る景色も変わる。脳出血を起こす以前の健康な私には、こうした姿は、明確には映らなかったに違いない。普通であることが大いなる恵みであることにも気付かなかった。と同時に、健康に生きていることが、どれ程奇跡的な恵みであるかにも気付かず、当たり前のこととして感謝もしなかった。朝・夕の感謝の祈りとはいっても、口先だけだった。哀しいかな、そんなことも、なってみてはじめて気付くことだった。人に夢と書いて儚(はかな)いと読む。仏教でいう「諸行無常」と重なる。そんなことを理解しながら恵みへの感謝の念を忘れずに生きるのが人生というものではないだろうか。