コラム156 <多忙 再び>
これまで「忙」とは心を亡ぼす意なり、と幾度も書いてきた。忙しさはいかなる意味でも心を亡ぼすものだと私が思うのは、それによって人間は静寂な時を失い、同時に深遠な思いをも失うからである。朝に峰の向こうから立ち昇る太陽を見て、生命の息吹と希望の恵みの拡がりを思うこともなく、夕には地平に沈む太陽を見て、その深遠さに心打たれることもない。
心の存在、魂の存在に対する確信を失い、来たる世界と、往きし世界の存在を信ぜず、信じるのは無常のこの世(現在)のみとなった。いや、それすらあやういものとなった。
私は東から昇り、西に沈みゆく太陽を眺めながら、太陽を神と崇め、信仰を抱くに至った人々の心情が理解できる。時に灼熱地獄のような様相を見せるが、この地球に計り知れない生命の恵みを与え続けている。もしも、太陽が失われたなら、どのような世界になるだろうか。我々人間の命も、地上の動物たちの命も、野鳥や草木の命も一瞬にして失われるだろう。
「Nature Is My Life」
〝自然は我が人生〟とも、〝自然とはかけがえのないもの〟とも訳される。このシンプルな言葉の意味をもっともっと重大なこととして受け止めなければならない。自然から受ける恩恵は計り知れず、自然は我々の生命そのもの、存在そのものだからである。
一時期、アイヌやインディアンの遺した記録を集中して読んだことがあるが、自然への畏敬の念を、現代人は恐ろしいまでに失ってしまったことを改めて痛感させられたものだった。