2016年6月20日月曜日


コラム 42 <高橋佐門と器> 

私の友人に高橋佐門という陶芸家がいる。もう長いつき合いである。30年程前にある人の仲立ちで知り合ったのである。それ故私の手元には彼の器がかなりある。義理を感じたのか、その後彼は住まい塾で家とギャラリーをつくった。
これまで粉吹窯変一筋に生きてきたが、世にいう粉吹(あるいは粉引)とはだいぶ趣が違って、これが粉吹かと思われるものまで表情の巾は広い。 

以前個展の際に私から知人達へ宛てた案内に
〝本人はいたって饒舌、しかし作品は寡黙です。〟
と書いてバレたが、改めて今見てもそう思う。
 
 この花の宵を思わせる窯変茶碗は華やいだあの花見の宵ではない。眺める人とて特に無く、音もなく静かに散りゆく街はずれの桜花を想わせる。
 
 
 
 
                             
 
 
 もう一枚の比較的大きな尺2寸の角皿は、秋草の葉かげでひっそりと光を放つ蛍を想起させる。蛍とは真夏のものと決まってはいるが、佐門のそれは真夏のものではない。 







 本人と会うと、私は不思議に思う。
 眼前のこの饒舌と、作品に漂うあの寡黙といったいどちらが真実なのだろうか・・・と。
本人に聞いてみたこともないし、尋ねたところで本人にだって判りはしないだろう。
 しかし私は思うのである。作品は眼前の人間よりもはるかに本人の内面の真実を写すものだ、と。作品の中には饒舌を思わせるものも少なくない。しかし佐門のあの過ぎる程の饒舌の底に、作品に見るあの寡黙が沈んでいるのを見るのである。