2019年12月30日月曜日



コラム145<一番のなぐさめ ②>

前コラムにも書いたジルボルト・テイラーは同著にこんなことも書いている。
〝病院の一番の責務は患者のエネルギーを吸い取らないことだとこの朝、教えられました。
この若い女性(病歴を調べるために朝早く、突然ばたばたと入ってきた医学生)は、まるでエネルギーの吸血鬼です。〟
〝その人の身になって情を通わすことが、いかにむずかしく、また安心につながるかも学びました。〟

ここまで読んで、私を担当してくれた2つの病院の二人の療法士のことを想い出しました。そして良い療法士とは本人にやる気を起こさせる療法士のことだと思いました。
前の病院で、ある日、迎えに来るまでの少しの間、車椅子から立ち上がって足に装具をつけ、杖をついて部屋の中を歩いていたら
〝誰が一人で歩いていいって言いましたか !!
とけんまくに近い言い方で怒られました。こちらはリハビリ前のウォーミングアップのようなつもりでしたが療法士さんにとっては万一転倒でもして、けがでもしたらどうするのですか!といった心境だったに違いなかったのですが、言い方を少しかえていたらその後はだいぶ違った関係になっていただろうと思います。
最後の病院の療法士さんは少しの危険は省みず、チャレンジ精神旺盛で、かつ ほめ上手でした。
〝いいね、いいね。でもくれぐれも注意深くね……〟
階段の登り降り練習でも最初は右・左とイチ・ニ、イチ・ニ、と一段ずつ確実に上っている最中に、こちらが面倒になって、右・左・右・左とイチ・ニ・サン・シーと片足一段ずつ登り始めたら
〝おぉ スゴイ、スゴイ!いいねぇ!〟
 こんな風にして一階から四階まで登ったことがありました。
勿論パーフェクトにはできませんでしたが、こんな具合に言われると、こちらもチャレンジ精神が湧くというか、元気をもらうのです。
〝こっちが勝手なことをするのですから転んでケガなどしても 絶対、病院の責任になどしませんから……〟 〝転ぶのも経験のうち!〟と宣言しておきました。
 安全を第一に考え過ぎる病院と、すこしチャレンジしていかないと、と考える療法士の在り方のバランスにはむずかしい面がありますが、私はチャレンジをして多少のケガをしたらこちらの責任とはっきり言ってやらせてもらいました。脇で見ていてそれはまだ無理ということはさせてくれませんし、こちらもする気がしないものです。いい療法士さんはちゃんと人を見ているのです。



 私の何よりも幸福だったことは心優しき人々に恵まれていたことでした。病に伏した時に特にこのことを感じるのであって、日常健康状態では悲しいかな、このことを我々は感じにくくなるのです。実はこれ以上貴いものはないというのに……。
 みんな、みんな、ありがとう!!
 病によって新しい人々とのつながりも増えました。
 ジルボルト・テイラーの文中のことばを最後に添えてしばらく続けた病牀日誌を終わりにします。

〝優しい思いやりこそ、お金で買えないものの筆頭でしょう〝

2019年12月23日月曜日


コラム144<一番のなぐさめ ①>

 人はしばしば他人を励ます。
病に伏している者、精神的に弱っている者、心に苦しみや悲しみを抱いている者等々、さまざまである。だが身体の、特に気の弱っている人には、この励ましが時に辛くなる。がんばって!、病は気からって言うでしょ!、決して諦めちゃダメよ!、絶対に治ると信じてがんばるのよ!……。
一生涯のうちで人は他人をどれだけ励ますことだろう。この励ましで勇気と元気を与えられる人も多いだろう。
ジルボルト・テイラー(ハーバード大学で脳神経科学の専門家として活躍していた彼女は37才のある日、脳卒中に襲われる。幸い一命を取りとめたが、脳の機能は著しく損傷、言語中枢や運動感覚にも大きな影響が……。以後8年に及ぶリハビリを経て復活)は著書『奇跡の脳』の中で、このように記している。
〝彼ら(見舞いに来てくれた同僚達)の親切心が本当に嬉しかった。二人(母と自分)とも動揺していたようですが、私にプラスのエネルギーを与えてくれ、そしてこう言ってくれたのです。〟
〝「君はジルなんだからきっと治るに決まっている」って。完全に回復するというこの確信はお金には換えられないものでした。〟(P.125)

こういう人がいる一方で、私もそうした経験者の一人だと思うが、リハビリ以外、大して疲れるようなことをしている訳でもないのに、すでに身体内が頑張ってしまっていて、気力と体力の芯がグッタリ疲れている者もいる。そういう人には他人からの励ましがかえって重荷にさえなる。もうすでに限界に近い程がんばっているところに〝がんばって!〟と追いうちをかけられると、いかにこちらのことを思っての言葉だとは判っていても、さらに重荷となり、苛立ちの元となったりする。言われた分、判っている分、こちらの身体が思うように動かないからである。うつ病の人にがんばって!とは言わないように言われる理由が、今回はじめて理解できたような気がした。がんばって!と言われる前に他人にはそうは見えないだけで本人の脳はすでに相当がんばってしまっているのだ。
身体の弱っている人間には前から手を引いたり、うしろから背を押したりするよりも ただただ そばで自然体で寄り添っていてくれることが、どんなにかなぐさめとなり、静かな励ましとなることだろう。こんな風に感じられるようになったのも、この病のおかげである。さまざまな場面における人への接し方はむずかしいが、他人を励ましたり、元気づけようとする時、これからの私は、以前の私とは確実に違ってくるだろうと思う。励ましよりも、時に必要なのは、はるかになぐさめだと思われるからである。それもやっぱり本心の優しさなしには滲み出ぬものであり、これもやっぱり、4つの心(コラム143)のうちの最後、「底」の問題に行きつくのだろう。

2019年12月16日月曜日


コラム143 <人の心に4つあり>

 大分前のことであるが、あるTV番組で古い野仏だったかに刻まれていた言葉で、以来忘れられない言葉となった。
 そこには
   〝人の心に4つあり 裏と表と陰と底〟 
とあった。

あるいはひらがなだけであったかもしれない。
あの世に持っていけるものは心だけだと言われる。地位・財産・名誉・権威・権力……勿論お金などいくらあっても持っていけないぞ。そんなものに執着していたら荷が重過ぎて昇天できない原理なのだろう。

どんな人が、どんな思いで刻んだものだろう。あの世に持っていけるものは心だけ。その心の中でも美しい心根・やさしい心根 即ち上の4つでいえば心の底の部分に当たるところだけではないのか……私は最近そう思うようになった。
脳卒中ばかりでなく病に伏すと人は人の心のありように鋭敏となる。

美しい心根は平和の元()
死ぬまでの人生をかけて、そんな人間になりたいものだ。


2019年12月9日月曜日


コラム142 <最近の心境>

病状の恢復が捗々しくなく、これまでになく辛い日々を送っている。くよくよ悩んでいても仕方がないので、やれることはやろうと西洋医学と東洋医学の病院での治療とリハビリトレーニング、それに自分でできる自主トレを続けているが、脳神経の病は厄介だ。見舞ってくれた人に〝一歩ずつですよ。焦らずにね〟と励まされて〝それは私の昔からの得意技だ〟と取り組んでも到底そんな訳にはいかず、途中からこの一歩ずつを十分の一歩ずつと自分なりに読みかえて努力してきた。
 退院後、御主人が経験したのであろうか
 〝恢復は、薄皮一枚一枚はぐようにですからね〟
と言ってくれた人がいて、くれぐれも焦らず、苛立たず(そう思ってもしょっちゅう焦り、苛立っている)やれることをやって結果は天におまかせの気分で生きている。かつ
  〝諦めつつ 諦めない〟
これが生き抜くことだ、と自分に言いきかせている。
ところで、この諦めるは諦観の念などと使い、仏教の悟りの境地のひとつのように思っていたが、このアキラメルとは明らめる、即ち、事の真理を明らかにすることだとある仏教者の本に書いてあったのでなるほど!と合点し、脳出血のおかげでひとつ賢くなったと思った。
これまでの人生で、これ程長期間〝自分との闘い〟を試されたことはなかった。俗に四苦八苦という。元々仏教用語で人生における八つの苦しみ(人間のあらゆる苦しみ)を表現する言葉だという。
 四苦は御存知の通り 生(しょう)・老・病・死 の4つの苦しみ、これに愛別離苦(アイベツリク)・怨憎会苦(オンゾウエク)・求不得苦(グフトクク)・五陰盛苦(ゴオンジョウク)4つを足して八苦となるのである。私は仏教に詳しい者ではないからもっと深く知りたい人には自分で調べてもらうこととして、四苦の方は調べなくともだいたい判る。かねてよりこの中の生がすっきり理解できなかった。お釈迦さんはたしかに生む苦しみ、生まれ出る苦しみと説いたと言われ、確かにその通りだと判ったつもりでいたが、私の今の気分では生まれる意というよりも生きる意ではないか、 生きる そのことがすでに苦であると捉えた方がより自然に思える。この八つの苦しみの中に人間成長の糧が含まれていて、それを生かし得てこそ人生の意味も出てくるといえるのではないか。お坊さんの説教のような話になったが病は失わせるものも多いが、真理に気づかせてくれることも多い。


2019年12月2日月曜日


コラム141 <リハビリテーション病院へは一日も早く!の意味するところ>

一般には失われた身体感覚を回復するには一日も早くリハビリを始めた方がいいということであろうし、これに間違いはないだろうが、それとは別に私の感じたところを記しておこうと思う。
 リハビリテーション病院は病状に一段落ついた人がリハビリのために行く専門病院であるから、病院の役割が限定的な分、急性期の病院によりもはるかに人も院内のリズムもゆったりしていて、私にとってはそれが何よりもうれしいことであった。
 忙しい、慌しいとは 文字通り 心を亡ぼし、心が荒れる意であるが、その辺が大きく違って忙しいには違いないのだろうが、煩しさの度合いがゆるい分、看護師はじめ職員も一体に対応が親切で優しいものとなった。私にはこのことがリハビリテーション病院に一日も早く移った方がいいといわれる第一の理由であると感じられた。
 皆それぞれに大変には違いないが過度な苛立ちが少ない分、リハビリのトレーナー(セラピスト)や看護師さん達ともいい人間関係が築かれやすいと言える。長期の入院生活になる訳だから、これはとても大切なことだ。
 勿論、理学療法士や作業療法士としての、プロとしての技量の差も病院や人によってかなり大きいのではないかと思う。詳しくは知らないが、理学療法士(PT)とは歩く方のトレーニングが中心で、作業療法士(OT)とは日常生活上必要な作業、例えば着替えたり、トイレに行ったり、ボタンのかけはずし、タオルの折り畳み、上級になれば、入浴や料理などまで広がるが、主に腕や手、指のトレーニングが中心となっているようだ。マヒして動かぬ分どちらのリハビリも疲れるが、歩く方よりかえってOTのトレーニング後の方がぐったり疲れるのが最初の頃は不思議だったが、作業療法の方が脳神経をだいぶ余分に使うせいだとだんだん判ってきた。
 私の場合、歩く方よりも一層、肩・腕から指先までの動きの回復がさらに捗々しくなく、それに強烈なシビレが加わって、根気強いトレーニングを必要としていると感じる。

 こんな風になってみてはじめて痛感するが、指先での細やかな手作業などは、全く奇跡的なことに思われる。歩いたり走ったりその他普通に動けることがすでに大いなる恵みであり、これに才能と訓練が加わって人並以上に優れたものが作り出せるようになるとか、すぐれた能力を身につけるなどは、自力の世界でのことのように思われていたが、全く他力の世界の中での奇跡であると思うようになった。


2019年11月25日月曜日


コラム140 <鹿教湯(温泉)病院>

 新しく転院した鹿教湯病院での3ヶ月間のリハビリは私にとってかけがえのないものとなった。
 松戸リハでは理学療法士(PT)Aさんを中心にしたチームで、感謝の言葉もない程懸命に取り組んでくれたが、途中急性胆のう炎を起こして「新東京病院」に転院を余儀なくされ、これでリハビリスケジュールとしては三週間程の狂いを生じた。順調に回復基調にあっただけに残念なことであった。あまりがまんし過ぎて胃に穴が開いたかのような激痛で、〝もう一日経っていたら敗血症になっていたところでしたよ。がまんも程々に!〟と注意された。
 松戸リハを転院する頃には介助者付きという条件で一本杖で100メートルか150メートル(勿論足に装具を付けて)歩くのがやっとだったように思う。Aさんも三週間の予定外の転院を残念がっていたのがよく判った。もっといい状態で転院させたかったのであろう。
ここでは4階の病室と一階のリハビリルームの往き来は私の回復程度では安全のため担当セラピストが車椅子で送迎するのが定まりだった。だから私は病室で迎えに来てくれるのを待っていればよかったし、帰りも車椅子で送られるだけだった。終わりの頃には4階エレベーターから自分の部屋までは〝自分で帰れますよ〟といって自走したりもしたが……。

 鹿教湯病院に転院して〝地獄の鹿教湯〟と呼ばれている意味を実感することになる。トレーニングがハードなんだろうな 位にしか思っていなかったが、入院した翌日のリハビリからびっくりした。私の病室は4階、リハビリルームは1階であるのは前病院と同じだったが(松戸リハではエレベーターを出るとすぐ目の前がリハ室だった)、大きく違ったのは内容だった。何せ60年の間に増築に増築を重ねてきたという古い病院だからエレベーターを出てからリハ室まで歩かなければならない。
しかも 〝4階の病室から1階のリハビリルームまでは自分で歩いて来て下さい〟
〝ハァ?車椅子でなくて、杖ついて、一人で、ですか?〟
〝勿論!大丈夫!出来ますよ!〟
おそるおそるエレベーターで一階まで降り、リハ室までまだ不安の残る一本杖で歩いていくのです。初日からですよ。
おそらく同じ日の午後だったと思うが、理学療法士(PT)Sさんが
〝杖なしで歩いてみましょう〟
〝ハァ?杖なしで、ですか?〟
しかも右手に八分目位水の入ったガラスコップを持たされてこぼさないように……それで歩けというんだから やるしかない。
〝酒なら違うんだけどなぁ…〟 などと冗談を言いながら歩いたら、それが不思議に出来たのです。ヨタヨタ しながらも水もこぼさずに……。リハ室内の事務室ワンブロックを一廻りしたのですから距離にして5~60メートルはあったでしょう。驚いたのはむこうじゃなくてこっちだ。
 午前の少しの時間でベテランのセラピストはどの程度までできるか見抜いているんですね。こうして理学療法士のSさんと作業療法士のNさんを中心にしたリハビリが始まり、以後ここでの3ヶ月間は私にとって忘れ難いものとなりました。

 
 つくりこそ古く、病室もいい部屋とは言い難いものでしたが豊かな自然環境に恵まれ、朝には野鳥たちのさえずりに目ざめ、毎朝七時には近くの山寺の鐘が ゴ~ン ゴ~ン と山中に響き、職員達も皆素朴で親切でした。ハードなトレーニングながらも良好な人間関係が築かれ、厳しい中にも充実したリハビリ生活が続きました。この間、患者にとって、いや人間にとって何が一番大切なものか、改めて考えさせられました。
 退院の日には涙がこみ上げ、食卓仲間達も皆別れのあいさつに来てくれました。こうして鹿教湯は私にとって第二の故郷と呼ぶべきところとなったのです。

 

2019年11月18日月曜日


コラム139 <2つ目のリハビリテーション病院>

 松戸リハビリテーション病院での約3ヶ月半のリハビリを終え、信州上田市の山中にある鹿教湯(かけゆ)病院に転院する決心をした。ここは鹿教湯温泉郷内にあり、歴史も古く、リハビリ病院としては定評のあるところである。元々第一の希望だったが、しかし身体がまるで動けない状態で、しかも看病者のことを考えると一気にそこに入院する訳にはいかなかった。決心したのはいいが県外の人間が入院するのも難しく、入院するまでの厄介な交渉や手続きに新しい連れ合いが苦労を重ねてくれた。前病院のソーシャルワーカーYさんも転院にあたって協力的に両病院のかけ橋となって力になってくれた。また長野市に住む長姉は長野と松戸をほとんど毎週のように往復して元気づけてくれた。
 これは鹿教湯病院を退院するまで続き、さらに現在まで続いている。連れ合いと姉は現役で仕事をしているのでうまく連携をとりながら親身に尽くしてくれている。秋田市に住む下の姉は幼い頃から股関節脱臼を患い、数年前に両足の手術をしたので遠出は無理とあって電話で秋田訛の言葉で 〝私はそっちまで見舞いに行けないけれど、朝に夕に御先祖さん達に一日も早く病気をよくしてやって下さいと拝んでいるから…〟 と言われた時には思わず涙が滲み出た。すでに電話口で姉の方が涙ぐんでいるのだから…。
小さい時はよく喧嘩したものだが姉弟仲よく育て上げてくれた親に深く感謝した。仲がいいというのは平和の象徴なのだから。





2019年11月11日月曜日


コラム138 <急性期(救急)病院からリハビリテーション病院へ>

発症から一日も早くリハビリを始めた方がよいとはよく言われることだが、急性期病院でもリハビリはしてくれるが、元々の役割が違うし割り当てられる時間も短い。それでも一歩足を出すにも困難な状態で二人の女性セラピストが汗だくになりながら懸命に取り組んでくれた。
太もものつけ根までロボコップのような装具をつけてかかえられながら車椅子からやっと立ち上がり、手摺づたいに ヨッチラヨッチラ 歩くのである。寄り添ってくれた二人の懸命さは忘れがたいものであった。

その後の転院先のリハビリテーション病院をさがし、決めるまでが大変だ。まず第一になかなか空きがない。看病する側にとって立地の問題も重要だ。友人たちも色々な病院の情報をくれた。病院のソーシャルワーカーも各病院と連絡をとり、調整してくれた。そんな中から病院の経営ポリシーからして少々日数を待ってでも、ここがいいと直感したのが千葉県の「松戸リハビリテーション病院」であった。後に別れた妻も早く入れるようにこの病院に日参してかけ合ってくれたらしい。こうしてやっと転院先と転院日が決まった。
この病院は新しく建った分きれいで、病室も広く快適であった。ベッドの他にソファ、デスク、収納家具、デスクスタンドが備えられ、壁には複製画であることは致し方ないとしても絵も掛けられていた。家具のレイアウトは患者が自由に変えていいというので看護士さん達の手を借りて自分流に変えた。これだけで部屋の雰囲気は大きく変化し、息子が準備してくれたCDプレイヤーとCDでほとんどの時間静かなジャズを流していたから、それに白々とした蛍光灯の大きなシーリングライトは消して唯一電球色であったテーブルスタンドのみを点けていたから、特に夜入ってくる看護士さん達は
〝ここに来ると気持ちが落ち着きますよ〟とか
〝他と同じ病室とは思えませんね〟とか
〝疲れた時、時々来ていいですか?〟
などという人まで現れてしばし音楽を聴いて帰る人もいた。冗談まじりに、
 〝こんどコーヒーでも持ってきて休ませ      てもらおう〟
などという人もいて、チェットベーカーやスタンゲッツなどのファンになった人もいるに違いない。
それからというもの、どれだけ多くの人と音楽や住宅の話をしたか分からない。部屋には私の書いた本や住宅建築の特集号を置いてあったから、借りていく人もいたし、皆住宅に大きな関心を持っているものだと改めて認識させられた。

 




 この頃は新刊本(平凡社)の校正の最終段階に入っていたから車椅子に腰かけながら辛い思いで作業を続けていた。宝塚から見舞いに来てくれた住まい塾OBの医師Sさんが自分の経験からして、これがいいですよ と早速ジェルクッションを送ってくれた。このおかげで校正作業がどれ程助けられたかわからない。
この病院の職員たちは皆親切で優しく、不快な思いを一度もしたことがない。みごとだと思った。
職業がらただ一つだけ気になったことがあった。
病室のエアコンが集中管理方式になっているためエアコンのONOFFを自動的に繰り返す度に天井吹出口付近の金属が収縮を繰り返すのだろう。これが皆寝静まった夜中に ピチッピチッピチッ と音がして気になってなかなか寝付けない。脳神経の病だから余計に敏感であったのかもしれないが、この時も新しい病院ができたら経営者も医師も看護師もどんな問題があるのか、入院患者となって寝泊りしてみるといいと思われた。もしこれが住宅のベッドルームならきっとクレームの対象になる。志高い病院であればある程、病院(特に長期入院を余儀なくされる病室)にはもっと住宅の感覚を取り入れる必要があると痛感した。

2019年11月4日月曜日


コラム137 <救急病棟から一般病棟へ>

一般病棟は階が上の方だったのだろう。窓から見えるのどかな田園風景が唯一のなぐさめとなった。遠くに木立が見え、その中にピンク色の桃の花が咲いていた。

畑の中に建っているから、風当たりも強い。個室であったが、天井の隅あたりを ブ~ンブ~ン と羽音とも風切り音ともつかぬ音がする。最初スズメ蜂でも入り込んでいるのではないかと思われたが、私は建築の仕事をしているから換気扇の羽根が強風にあおられて逆回転を起こしているのではないか―それが夜半ともなると病棟・病室が静かになる分、その音が気になって眠れない。
看護士さんにその旨を訴えると〝この部屋に入った患者さんから時々そう言われるんですよ〟と言う。時々言われているのなら原因をつきとめて改善すればいいじゃないか!と思うが返ってきた言葉に驚いた。
〝建物がこうできているんですから仕方ないですよ!〟看護士の役割の範疇ではないことは重々承知しているが担当部署の方にお伝え願いたいといっても〝元々の設計がこうなっているんだから仕方ないですよ〟の一点張りであった。そんなにむずかしいことではない。こちらは身体も気力も萎えているから怒る元気もない。あの調子では、あれから一年半以上経った今もあのままだろう。
急性期病院の看護士さん達は本当に忙しい。救急患者が運ばれてくれば夜中でも呼び出される。多忙過ぎて気の毒にも思う。「忙」とは心を亡ぼすの意、それが多くてかつ過ぎるのだから、苛立つのも無理はない。病院体制の改革も勿論必要だろうが、それを職業に選んだプロなのだからとくに精神的にそれを乗り越える術を身につけて欲しいものだと思う。超多忙は病院とは病人のためにあることを忘れさせてしまう。ナースコールを何度押しても来ない。多忙が限界を超えて文字通り心を亡ぼしかけている人が多い。一人ではトイレに行けない、一人で行くことを禁じられている状態でナースコールを押してからやっと来てくれたのは、ある時は40分後であった。来ないから何度も押す。来た時には〝一度押せば判ります!〟と看護士も苛立っている。中には気の強い患者もいて〝何度押しても来ねえから何度も押すんじゃねえか‼〟とどなり返しているのもいた。〝おめえみてえなヤツは嫁のもらい手がいねえぞ!〟などと余計なことをいう患者までいた。悪循環である。
おむつをしているから大丈夫かといえば量の多い人は二重にパットをしていても間に合わない人もある。そういう人のことを裏方では大口さんと呼んでいることも知った。おむつがとれて尿ビンになる時期が来る。ある時いやにでかいものを持ってきたことがある。〝俺は馬じゃねえぞ!〟と笑い合ったこともあるが、今思えばあれは大口さん用だったのかもしれない。
「病気を経験しなければ病人の気持ちは分からない」とは真実のことだと思うが、専門医・看護士がすべてその病気になってみる訳にはいかないし、それでも改善できることは沢山あると思う。住宅の仕事も大変だが病院の仕事も大変だなあ、私などは同情半分の気持ちで見つめていた。

2019年10月28日月曜日


コラム136 <救急病棟 その②>

 ことの前後がはっきりしないが、身体がまるで動かない状態の中で身の置き所のない苦しみを味わった。必死に動こうとしてベッドから二度落ちた。一度は病院側の柵不足。もう一度は動くほうの右手か右足でベッドの柵を力いっぱいに抜いたものだろう。落ちるときは決って重い頭からで、コンクリートの床に頭から落ちるのだから衝撃も強い。廊下を通り過ぎる看護師はいるのだが大きな声で呼んでも誰も気づかず、来てもくれないからしばらく床にそのまま横になっていた程だ。こちらは全く動けないのだから
 こうしてついにベッドに縛り付けられる結果となった。これはやられた経験がないと想像できないだろうが地獄の苦しみだった。二度落ちたらこうするのが病院のルールだというのだが、身体の自由を束縛されることはどんなに苦しいことか、それでなくとも身の置き所のない苦しみを味わっているうえに、さらに縛り付けられて身動きひとつできないということがどれほど苦しいことか、医師も看護師も一度は経験しておくべきだと思った。どうせ動けないんだから縛り付けられたままグーグー寝てりゃいいようなものだがその辺が健康体の人と特に脳をやられた人との違いだろう。幾度頼んでも病院の決まりだからの一点張りであった。万一なにかあったら病院側の責任問題になる、というのも判らぬではないが何か改善の策がありそうなものだし、人権蹂躙にも等しいあの拘束方法は改めるべきだ。
 どういう理由でか判らないが枕の位置・高さをひっきりなしに変えないと耐え難かったし、全身のマッサージをしてほしい思いは深刻かつ切実であった。妻が来てくれた時にはまめに枕を変えてくれたし、マッサージへの切実な願いは住まい塾事務局のKさんが時間を見計らってはしばしば病院を訪ねて、野口体操の心得があるようで専門家はだしのマッサージをしてくれた。
 そんな経験を経た後、ベッドに乗せられたまま救急病棟から一般病棟に移された。入浴もステンレスパイプ製の棚のような上でシャワーを浴びせられ、まるで洗濯物のような気分であった。身動き出来ないのだからこれも致し方ないことであった。



2019年10月21日月曜日


コラム 135 <救急病棟 その①>

 脳出血とは脳に激しい痛みを感じ、バタンと倒れて意識を失うもののように思っていた。だが私の場合は全く違っていた。
 2018年2月11日午後1時から3時までの定例勉強会後ある建主との打合せを終えてスタッフが準備してくれていた遅めの昼食を自室で済ませてお盆を寄せようとしたら、どうも左手に力が入らない……おかしいな、と思っているうちに全く力が入らなくなった。勉強会直後だったしスタッフも多く残っていたから誰かを呼んだものだろう。Y君が二階に登ってきてくれた。〝どうも左手に力が入らないんだよ〟などと言いながら椅子から立ち上がろうとしたら左脚にも力が入らず、床に崩れるようにへたり込んだ。Y君が〝すぐに救急車を呼びますから!〟と言った所まではしっかりと覚えている。その後救急病院に運ばれてMRI他、一段落するまでの間はうる覚えだ。視床出血であると告げられたのもはっきり覚えている。(翌日であったかもしれない)
運ばれた救急病院は東京本部からそう遠くない〈イムス三芳総合病院〉

多くの人に言われたが私は運がよかった。
第一の好運は
マイナス20度にもなる冬の山小屋から帰塾したのが前日の夕刻であったから、これが山小屋で倒れていたら間違いなく凍死していただろう。
第二の好運は
勉強会後多くの人がまだ残っている時間帯であったこと。
第三の好運は
日曜日であったのに運ばれた救急病院のその日の日直医が脳神経外科の先生であったことだ。(余談だが、後に那覇空港で財布を無くして困り果てていた青年にお金を貸したかあげたかしてTVにホットニュースとして流れたことがあったがその先生がこの時の私の担当主治医であった。偶然とはおもしろいものだ。)

その後救急病棟に何日位居たか定かではない(おそらく一、二週間といったところだっただろう)が、そのあと一般病棟に移された。
命も落とさず、こういう好運はまだおまえにはこの世でやることがあるという証だなどと言われるが、この辺の真理のほどは私には判らない。さまざまの条件で生かされたことに間違いはないからそう信じてやれることをせいいいっぱいやるしかない。


2019年10月14日月曜日


コラム 134  人間は進化しているのだろうか? > 

脳科学は急速な進歩を遂げている。
人間の脳は進化し続けているともいう。
しかし「人間そのもの」は果たして進化しているのであろうか。
そもそも人間が進化するとはいかなることであろうか?
人間であることの本質は心にあるとすれば、
・優しさや思いやりをさらに深めていけているだろうか
・人間であるための志をさらに高貴なものとしていけているのだろうか
・心をしなやかで美しいものとしていけているであろうか

最近の人間の状況、社会の事象を見ていて、
〝人間が人間であることからしだいに遠のいていっている〟と感じるのは私だけではあるまいと思う。
最近の疑問と、人間社会はどうなっていくのかという将来に対する大きな不安である。

神が遣わした地球人の時代は終わり、異星人の地球となるのだろうか。奮起しようではないか、旧地球人よ、地球と人間を守るために・・・・・
どこかの映画のような話になったな・・・・・。



2019年10月7日月曜日


コラム 133  名言・名句辞典 > 

退院したら古今東西の偉人・賢人達が、例えば「人生」についてあるいは「死」について、あるいは「病」や「老い」についてどのような言葉を書き遺してきたものかを『名言・名句辞典』などを通じて読み通してみたいものだとベッドの上で思っていた。たった一人の、たった一つの病のためにこれ程多くの人々に迷惑と世話をかけていていいものかと思われて、そんなせつない気持ちがそんなことを思わせたのである。退院後最初に手にしたのが『名言名句の辞典』(小学館)である。
しかしながら、言葉というものは前後の文脈から抜き出して集められてみても、生命の源たる根から切り離されて萎(しお)れた花のようなものとなって、心打つ言葉に出会うことはなかった。早々に、これは自分の足でさがし求め、一人旅の途中で偶然に出会うしかないものだと知った。膨大な資料の中から、他人の集めたものをかいつまんで、効率よく味わおうなんて根性は所詮虫のいい話だ。そんな安直な理解を自然は許さないということなのだろう。
やはり著者が心を込めて書いたものは一冊一冊心を込めて味わわなければ、胸を打つ真理の言葉には出合わぬものだ。苦労を共にして生きなければ、脳みその一部をちょいと刺激する程度に過ぎず、決して魂の糧にはならぬものだと再認識させられた。

読みたい本は山程ある。この生涯中にどうしても読んでおきたい本もある。それを取り出そうとするが、この脚では地階や中二階の書庫まで登り下りできない。悲しくも哀れなものだ。だがひとつだけできることがある。それはインスピレーションを書き記すことだ。イメージをスケッチすることもできるようになった。右手が動くのが幸いだった。
それでも長時間根をつめることができない。できるが、そのあとぐったりする。複雑な回路の神経が疲れるのだろう。皆に教えられたように焦らず、へこたれずに行こうと思う。

2019年9月30日月曜日


コラム 132  その人の身になることのむずかしさ > 

こんな時でもなければ真剣に読むこともあるまいと、最初病室に持ってきてもらったのが正岡子規の『病牀六尺』他二冊の病床日誌であった。
生きる上で身近な人々に大変な世話をかけながら、何を我が儘なことを言っているのか・・・・・と思わせられる場面が時々登場する。しかし病に臥した人間からすれば多かれ少なかれ、もう少し気を使ってくれ!とか、もっと患者の身になってくれよ!などと思われる場面にどうしても出くわすことになる。私のこの9ヶ月間に亘る入院生活中にもお世話になっている方々に頭の下がる思いをしながらも、そういう場面に時に遭遇した。そのたびにその人の身になることのむずかしさを思わせられた。
これは看護士や介護士にあっても同様で、何か専門家とか素人の差というよりもひとえに人間的な気遣い、気転、優しさといった面が総合された差であろうと思われた。専門家だって気のきかぬ人は気がきかぬのである。
ベッドシーツの交換の度に身体の不自由な患者にとっては命綱ともいうべきナースコールのコードがブラケット(壁付照明)に巻き上げられていてベッドに戻って横たわった時にはナースコールに手が届かないとか、私の場合車椅子の生活からしばらく離れられなかったのだが、部屋の掃除の後など、車椅子の置いてある位置がベッドから遠過ぎたり、向きが逆になっていたりして〝車椅子まで歩いて行けってえのか!〟などと思わせられたこともたびたびである。おまけにナースコールは手が届かないのだから無理にベッドの柵を伝いながら歩こうとして転倒したこともある。
長い入院生活だったから、さまざまな場面を経験したが、その中で感じたのは特に健康体の人が身体の不自由な人の身になって気配りするむずかしさである。つい最近まで私もその健康体の一人であったのである。多くのことを教えられた。
やさしい表情や細やかな気遣いの根底にあるのは何といっても人間としての心根の優しさである。
気配りのない冷たそうな看護士が夜勤担当だったりすると少々気が重くなったものだった。逆にやさしい人が担当だったりすると安心できた。
病に臥している者はその辺に敏感になり、やさしそうな人とやさしい人を直感的に見抜くようになる。特に急性期病院は皆忙し過ぎるせいなのだろう、そのあとのリハビリテーション病院よりはるかに感情のピリピリ感、ザラザラ感、バタバタ感が強い。致し方ないのだろう。
そのあと松戸リハビリテーション病院で4ヶ月、信州上田の鹿教湯病院で3ヶ月リハビリ生活を続けたが、この二つの病院では不快な思いをしたことが一度もない。この辺が急性期とリハビリ病院の一番大きな違いだろう。退院時には主な関係者が集まってくれ、握手をしながら皆涙ぐんだ程だ。特に鹿教湯病院は山中にあったから余計にそう思われるのかもしれないが、私にとって想い出深い第二の故郷になるだろう。

2019年9月23日月曜日


コラム 131  食について/普通であることの大いなる惠み > 

私はすでに72才になった。中には豪傑もいて、70才を過ぎても酒豪・大食漢という人もいる。私はその辺まあ普通で、うまいものをもりもり食べたい、うまい酒をぐいぐい飲みたいという年令を疾うに越えている。脳出血を起こして左半身の自由がきかなくなってからというもの、余計にそうなった。
それだからこそというべきか、少量を、器から配膳に至るまで〝美しく食べたい〟という思いが以前よりさらに強くなった。幸いなことに伴侶が美的センスに恵まれているから救われているが、一方残念なことに、こちらの左手の自由がきかないから美しい食べ方ができない。極力左手を参加させるように努め、朝食後の食器洗いなどはリハビリを兼ねてできる範囲で自らやっているが、手や指が細やかに動くなどということは奇跡的な惠みであることを教えられている。普通であることすべてが大いなる恵みであることを知らされただけでも、健康そのもので歩んできたかのような私にはこの世に生まれ出た人生の甲斐があったと考えなければなるまい。苦しんでいる人が身近にこれ程多くいることにも気付かされた。

2019年9月16日月曜日


コラム 130  久々のブログ再開 > 

私のブログ『―信州八ヶ岳―山中日誌』は129回で途絶えた。20182月に脳出血で倒れて左半身マヒとなり、続けることができなくなったからである。あれから約一年半余り、数え切れない程多くの人たちに支えられながらリハビリに努めてきた。
寝返りもうてず自分の左腕がどこにあるかも判らないような当初の状態よりは格段によくなっているが、御世話になった方々への御恩返しが何百分の一でもできる程度までには回復したいという自分の思いに比すれば恢復の程度は捗々しくない。右手が動くのだから字や文章位書けそうなものだが脳の病はそう単純ではない。

私のやられた部位は視床というところだが、それがどの辺にあるのか私は知らない。が、どうも色々なところへの運動神経の通過点になっているようで、それ故左半身の各所に影響が及ぶことになった。幸い予想された言語への障害は、自分にはもつれる感があるが、他人にはそれ程には聞こえないらしく、言語のリハビリも早々に卒業となった。今回初めて知ったのであるが、舌の神経も中心から左・右に分かれているとのことで、左側にマヒ状態が残った。それと関連しているのか口の中全体が軽く火傷を負ったような感触となり、口腔外科では「舌痛症(ぜっつうしょう)」と診断された。病名はあるが原因がはっきりしていないとのことで治療法もこれといって無し。神経から来ているのだろうと言われているとのことであるから今回の病と関連していることは確かなようだ。それ故熱いものは自然に遠ざけることとなり、自ずと味覚にも影響が及ぶこととなった。それでもうまいものはうまいし、まずいものはまずいと判別がつく程度に留まっているから・・・・・まあ いいか。
今最も強く残っている後遺症は左半身、特に肩から腕・指先までのジンジンする強烈なシビレである。それが左脚にも影響を与えている。薬とリハビリによって少しずつでも快方に向かえばいいのだが、こればかりは逆に段階的に強くなって時々気が折れそうになる。強い日は気力と体力がこのシビレに吸い取られていくような気分になる。そしてひどく疲れる。こういう状態ではインスピレーションとエネルギーの集中を要する文章などはなかなか書けないものだ。シビレの専門医にも幾人か診て戴いたが、結果は同じであった。〝シビレとはつき合っていくしかありませんねえ。そう覚悟して下さい〟・・・・・覚悟しろと言われてもねえ・・・・・。
 志木に帰って最初に行った病院が「いしもと脳神経外科」。退院後二ヶ月程してのことである。いしもと先生曰く。
〝お酒は飲んでないでしょうねえ〟
〝いや、退院の日からやってますよ〟
〝ダメじゃないですか、退院の時に医師から言われませんでしたか?発症から1年はダメだって〟
〝いや、一度も言われたことないなあ・・・・・〟
〝どうしてかなあ・・・・・〟と私の顔をまじまじと眺めながらポツリ・・・・・
〝言ってもムダだ、と思ったのかな?・・・・・〟
そういえば、リハビリ入院していた鹿教湯病院の主治医の先生は人間的で心の広いすばらしい方だった。
〝1年といえばもうすぐじゃないですか〟の私の言葉に
〝見切り発車したんだから秋位までは控え目にしましょうね〟
だから今は控え目だ。

発症後半年以後はリハビリの効果は上がらない、というのが定説になっているようだが、多くの体験者が語るところによれば、それは違う。脚に装具をつけながらのことだが、私も500メートル、1000メートルと歩けるようになったのは半年過ぎてからである。
リハビリのセラピスト達のおかげで歩行や手の動きなど少しずつ回復しているが諦めずに今できることに少しずつ挑戦してやがてブログが続けられていた時のように自然が与えてくれる無限のインスピレーションに充たされながら文を書き続けたいと望んでいる。

美しいものが沢山あるというのに写真も今は自分の手で撮れないのが無念だ。レンズに納めたい感動的な草花や自然界の光景に出会うと、思うように動かない身体がもどかしい。
焦らないように、苛立たないように、一歩ずつ、半歩ずつ、薄皮を一枚一枚はぐような気持で・・・・・と多くの人に教えられ、諭された。

今後しばらくは病床日誌のような形で患者としてあるいは病室で思い感じたことなどを書き記していこうと思う。