2019年12月9日月曜日


コラム142 <最近の心境>

病状の恢復が捗々しくなく、これまでになく辛い日々を送っている。くよくよ悩んでいても仕方がないので、やれることはやろうと西洋医学と東洋医学の病院での治療とリハビリトレーニング、それに自分でできる自主トレを続けているが、脳神経の病は厄介だ。見舞ってくれた人に〝一歩ずつですよ。焦らずにね〟と励まされて〝それは私の昔からの得意技だ〟と取り組んでも到底そんな訳にはいかず、途中からこの一歩ずつを十分の一歩ずつと自分なりに読みかえて努力してきた。
 退院後、御主人が経験したのであろうか
 〝恢復は、薄皮一枚一枚はぐようにですからね〟
と言ってくれた人がいて、くれぐれも焦らず、苛立たず(そう思ってもしょっちゅう焦り、苛立っている)やれることをやって結果は天におまかせの気分で生きている。かつ
  〝諦めつつ 諦めない〟
これが生き抜くことだ、と自分に言いきかせている。
ところで、この諦めるは諦観の念などと使い、仏教の悟りの境地のひとつのように思っていたが、このアキラメルとは明らめる、即ち、事の真理を明らかにすることだとある仏教者の本に書いてあったのでなるほど!と合点し、脳出血のおかげでひとつ賢くなったと思った。
これまでの人生で、これ程長期間〝自分との闘い〟を試されたことはなかった。俗に四苦八苦という。元々仏教用語で人生における八つの苦しみ(人間のあらゆる苦しみ)を表現する言葉だという。
 四苦は御存知の通り 生(しょう)・老・病・死 の4つの苦しみ、これに愛別離苦(アイベツリク)・怨憎会苦(オンゾウエク)・求不得苦(グフトクク)・五陰盛苦(ゴオンジョウク)4つを足して八苦となるのである。私は仏教に詳しい者ではないからもっと深く知りたい人には自分で調べてもらうこととして、四苦の方は調べなくともだいたい判る。かねてよりこの中の生がすっきり理解できなかった。お釈迦さんはたしかに生む苦しみ、生まれ出る苦しみと説いたと言われ、確かにその通りだと判ったつもりでいたが、私の今の気分では生まれる意というよりも生きる意ではないか、 生きる そのことがすでに苦であると捉えた方がより自然に思える。この八つの苦しみの中に人間成長の糧が含まれていて、それを生かし得てこそ人生の意味も出てくるといえるのではないか。お坊さんの説教のような話になったが病は失わせるものも多いが、真理に気づかせてくれることも多い。