2015年10月26日月曜日


コラム 8 <生きているとは>  

 不思議なのは魚だ。
 沼津の「和助」は住まい塾が手がけた干物店だ。長いつき合いだから私はつまらぬことに疑問を抱き、そして聞く。
 干物の程よい塩分は約3%だという。それは海水の塩分濃度とほぼ同じなのだそうだ。この店は真塩のみを使っている。添加物無し。だから私は聞いたのだ。
“魚って、生きている内にどうして程よい塩加減にならないんですかねえ・・・・・。”
きっと浸透圧の問題だろうという。生きている命とは湧き出ずるエネルギーを内部から外に向けて放出しているのに違いない。だから海水の塩分も生きている内には浸透しないのだろう。人間だってそうだ。海でおよいでいたら塩分濃度3%というようなことになったら大変だ。 

 娑婆の生活はとても忙しい。山中に来てはじめて気づいたことがある。それは忙しいとはいってもよくよく考えてみると、次々とやってくる外からの求めに反応しているに過ぎないということ、これが山中生活では外からの求めが少ない分、身体内部から沢山のものが湧いて出てくるということ。市中生活と山中生活ではベクトルが逆なのだ。
 これはある面“生”と“死”の問題とかかわりがあるのかもしれない。私にはこのことがそれまで見えなかった。放っておかれて湧いてくるもの――これはインスピレーションと呼んでいいものだが、かえってその中にこそ真の個性というものがあるのではないか、と思ったのである。 

 季節に押されるように、春には草木が大地から芽吹いてくる。野鳥達は囀り始める。彼らは自らの意志や努力によってそうするのではない。全てがホンモノだ。人間だっておんなじだ。求めに応じるだけの自分からは本当の自分というものは見えてこない。放っておかれた中に湧いてくるものを注視しなければ、真の自分を発見しないままに終わるのではないか。
 “忙とは心を亡ぼす意なり”という。私は山中生活を始めて間もなく、自然の中に身を置く意味を発見したのである。




2015年10月19日月曜日


コラム 7 <都会の孤独、山中の孤愁>
 
  















 
 ウソがひんぱんにやってくる。つがいの親鳥の他に子が三羽、他に一羽肥立ちが悪いのか、いまだに親鳥について廻って、羽根をふるわせながらピーピーとエサをねだっている。
 外で本を読んでいると卓上までやってきて、“あなた、だれ?”といった顔付でキョトンとしている。親鳥がそうすると小鳥も恐怖心をなくすのか、同じくそばまでやってきて卓上のヒマワリをついばんでいる。ほんの目と鼻の先だ。 

 こんな時、私は野鳥達と自分は同じ世界に生きているのだと実感する。
 昨日などはパンを食べている脇にやってきて、“それ、なあに?”といった表情で見つめていた。“パンだよ、パン・・・・・パンっていうんだよ”と言ったら“ふ~ン”と判ったような顔をしてパラパラと置いたエサをついばみ始めた。まるで身近な仲間と一緒に食事をしているようだ。 

 朝スクリーンを上げると、枝の上でフィー、フィーとやっている。朝食の時間だ。私は窓を開けて、“おはよう!”と言う。樹々達ともあいさつをかわす。登り始めた太陽にも、ありがとうと言う。まもなくコガラ、ヤマガラ、シジュウカラ、キジバト達が集まってくる。時々リスも姿を見せる。少し離れた向こうには鹿だって・・・・・。夜には月も、星も、皆語り相手になる。 

 都会の姿が思い浮かぶ。数限りない人間が行き交っている。一人一人が孤立して重ならず、仕事のこと以外ほとんど無為にして他にこれといって為すこともない。そわそわと忙しい中では、人と人とのなごやかで素朴な交流も生まれない。あるのは明らかに群衆の中の孤独だ。
 群衆の中にあるものを「孤独」と呼ぶなら、山中にあるのは都会が失い過ぎた一人でいることの「孤愁」である。かえってこの方が、人間本来の姿なのかもしれないと思ったりする。

2015年10月12日月曜日


コラム 6 <恵みの雨に地球を思う-その②>
 


















 私の仕事場《住まい塾》東京本部には、今のところエアコンはない。私は、真夏は山中暮らしだから山に発つ前に皆に次のように言い残す。

    <夏季生活心得五ヵ条>
        1 早寝・早起を心掛けよ
    2 午前ダッシュ
    3 午後惰性
    4 シャワー自由・トイレも自由
    5 ビールも自由、但し4時から 

冗談のように思われるかもしれないが、半分は真剣だ。地球を益々暑くする悪循環に易々と与する訳にはいかないという思いと、原発を必要としない国づくりに対する小さな意思表示だ。
 私は市井の一人として専門家達のようにむずかしくではなく、また政治家達のようにややこしくでもなく、素朴にこんな風に考える。
 山の一画で感じたように、まずは緑化事業をどんどん推進することだ。それと同時並行に我々の仕事場のように窓を開け、クーラーをやめるところを増やしていくことだ。所沢市では学校からエアコンを無くそうとして物議をかもしたが、その気になれば止められる学校など全国に沢山あるのではないか。 

 そのためには「風通しのいい建築」を設計しなければならない。が、今の建築基準法に採光面積の基準はあっても風通しの基準はない。住宅についても同様だ。クーラーに頼るのがすでに前提になっているからなのだろうが、これは間違っている。高気密にし過ぎて24時間の人工換気を義務付けるなどと愚かなことをやっている暇があるなら、こちらの方がはるかに先ではないかと思う。生存基盤上の喫緊の課題なのだから・・・・・。
 これまで住まい塾の特集を幾度も組んでくれた建築思潮研究所(「住宅建築」)の編集室は都内両国駅に程近いビルの中にあるというのに、クーラーは付いてはいるようだがいつ行っても窓が開けられていて、使用は極めて限定的だ。編集室だから紙など風で飛んだりしないものかとこちらの方が心配になるが、ああいう姿をみていると、これはかなり覚悟の問題であるように思えてくる。 

「大胆な政策をもって冷房をやめていく、減少させていく。」
国の方針がそうと決まれば、日本のことだ。環境に負荷をかけない建築上の工夫、素材の開発、生活上の知恵もさまざまな形で生まれてくるだろう。
 八ヶ岳山麓でも標高1000メートル付近の舗装だらけの街に降りていくと蓄熱放射の影響で極度に暑い。こうした現象を見るにつけ舗装材の開発も真剣に考えてもらいたいものだと思う。 そしてやはり何よりも樹々を政策的に増やし、各人、各戸、各所でそれに向けた努力を継続的に、辛抱強く重ねていくことだ。
 樹々を植えて緑たっぷりの町にしていくこと、特に夏は繁って太陽をさえぎり、冬は葉を落として太陽を迎え入れる落葉樹を中心に植えていく。これによって、日本に恵みとして与えられている季節感もあちこちによみがえってくるだろう。都市におけるエアコンの必要性も次第次第に減少していくだろう。高原を走る車はかつてのように窓を開け、さわやかな風を受けながら走る姿も見られるようになってくるだろう。 

 しかしこれを現実のものとするためには、落葉をゴミのように考えて隣家に苦情を持ち込むなどの愚を犯さぬ国民になることが必要だ。枝が出ている、葉が落ちる、大木は伐り倒せ!・・・・・こうしたことが今日では日常茶飯だ。これに心をいため、樹々を植えることをためらう人達も多い。近隣トラブルにまで発展するようなケースもめずらしくない。
 こんな感覚では緑豊かな街の実現など夢のまた夢。私はかえって、“どんどん枝を伸ばしあい、どんどん葉を落とし合おう”といった環境条例もしくは憲章を設ける自治体が出ないものかと思う。落葉が気になる人は自分のところの範囲は自分が掃く―――これ位のおおらかな気持ちが必要だと思う。京都には道路のことなのだろうが昔から隣一尺まで掃く慣わしがあると聞いた。配慮し合うがあまり出しゃばりもせずといった気持ちを、この一尺に表しているのだろう。

 日本人の元々はもっと大らかなものであった。それに我々が酸素を吸い、二酸化炭素を吐いて生きていられるのは、樹々達のおかげではないか。
 どこにも先がけてこんなことを大胆に試みる街はないものか。一つでも成功すれば見習う街がひとつ、またひとつと増えていくだろう。
 やがて日本という国全土をあげてこのような取組みを続けていくならば、クーラー激減の社会実現も夢ではないだろう。また、こうした取り組みが原発を必要としない国づくりへの足掛かりともなっていくことだろう。

2015年10月5日月曜日


コラム 5 <恵みの雨に地球を思う-その①>
 

   今日は猛暑が続いたあとの久々の雨だ。火照った樹々はシャワーを浴びて息をつき、大地はひたひたと水分を補給する。文字通り待ちに待った恵みの雨だ。山は急速に冷えて、本来の涼しい風を運ぶ。

 山中に暮らしていると、年々ひどくなるこの暑さはきわめて人為的なものだと判る。
 標高1600メートルの森の中にあっても樹々の伐られた敷地に立つと、同じ標高かと思われる程に暑い。

 かつては窓を閉めて走る車など無かったと地元の人は言うが、今では窓を開けて走っている車はほとんど見かけない。クーラーをかけ、排気ガスと熱風を吹き出しながら涼しい高原地帯を走り抜けてゆく。 

 開発の手が延びて年々森が失われる。道路、別荘地開発、それに補助事業だというが理由のよく判らない幹線道路沿いの大規模な伐採公共工事。
 涼風を求めて来る別荘地内にあっても肝心の樹木を皆伐して平気な者が増えている。
 地球規模の・・・・などと大袈裟なことを言わずとも、ここに生活しているだけで高原の涼しさは人為的行為によって確実に失われていっていると判る。 

 人工物に埋め尽くされた都市など、もう救い難い程天意が届かない。人間は大自然の中のほんの小さな存在に過ぎない、などと言ってはみてもそんな実感はどこにも、誰にも無い。自然の緑は粗方失われ、厖大な数の車、汽車、電車、バス、そして小さな住宅から巨大な超高層ビルに至るまで、あらゆる建物が熱風を吐き出す。最近では下へ下へと潜り込んでいく地下鉄及び駅舎までがこの対象だ。 

 これで熱くならない訳がないだろう。内を冷やして益々外を熱くする。判っちゃいるけど止められない。この悪循環をどう食い止めるのだろうか。もうどうにもならないと多くの人が言う。しかし、判っちゃいるけど止められないことは、どうにかして止めなければならない。

 さて、どうする。国を挙げて、民意を挙げて、大議論が起きてしかるべきだ。