2023年11月27日月曜日

 コラム349 <救急車内にも笑いあり その②> 


 転倒と言えば、これまで幾度転倒したか知れない。コンクリートの床に頭をぶつけること三回、庭先のごろた石に頭をぶつけて流血三回、その他山中での散歩中や室内での転倒を数えると20回ではきかないかもしれない。強打した時などその都度MRIを撮って確認したが、私の頭の骨は脳内と同様よほど固く出来ているらしく、異常が見つからない。〝こんどは石の方を割ってやる!〟と豪語したほどである。

 今回は脳梗塞と硬膜下血腫が疑われたが、特別新しい徴候は見当たらないという。自分では頭、肘、肩、尻、手首などさまざまなところを打撲しているから、身体全体のバランスが崩れていると感じる。左マヒ側の関節や筋肉のひきつれが強烈で、これを加速させたのは、明らかに三回のコロナワクチンの接種である。


 〝笑いは副作用のない薬〟というがどんな中にも笑いの種はある。笑える時は笑うことである。それにしても長く続くこの苦しさには、さすがに私もへこたれそうである。





2023年11月20日月曜日

 コラム348 <救急車内にも笑いあり その①>


 9月初旬から1か月余り、緊急入院を余儀なくされた。9月2日の明け方4時頃、洗面所からの帰り、転倒を繰り返して、これは異変が生じたと感じたからである。脳出血の後遺症には違いないのだが、やっと立ち上がってベッドに向かおうとするが、体のバランスが崩れて、すぐまた転倒する。これを三度繰り返した。チェ・ゲバラのことを思い出し、ならばと試みたが、左半身マヒの身に匍匐(ほふく)前進はままならなかった。


 ここは基本的に別荘地である。あまり早い時間では住民を驚かすことになるから、七時頃まで待って救急車を呼んだ。

 転倒はこのところ平均週一回程度だった。今週は転倒しないのを目標にしましょうよ、と週二回来てくれている訪問リハビリの療法士(セラピスト)と話していた矢先のことであった。〝名前が修一だから、週一回転倒するのかなあ・・・〟などと冗談を言っていたのに、この始末である。


 長い間親しくしてきた近隣の馬場夫妻が、ご主人のブルーの軽トラですぐに駆けつけてくれた。連れ合いは横浜の方に帰ったばかりであったから、救急車には奥さんの千恵子さんが同乗してくれた。しばらく走ってから、救急隊長曰く、

〝うしろに付いてくるあのブルーの軽トラは、お宅の御主人ですか?〟

〝救急車は交差点でも優先権がありますが、一般の車は赤信号では止まらなきゃいけません。救急車のうしろに付いて来るのが一番早いでしょうが、危ないですから救急車を停めて注意してきます・・・〟

 私は担架(たんか)に横になりながら、千恵子さんと一緒に笑った。我々は救急車の中で隊長が救急病院とやり取りしているから、どこの病院に向かっているか判っているが、御主人の東彦(はるひこ)さんはどこに向かっているのかを知らないから、はぐれたら大変とばかりに必死に付いて来たのだろう。


 東彦さんは私が長い間別荘地の住民の会の会長を務めていた間、事務局長を務めてくれた方である。千恵子さんは〝最近ああいうところがね・・・ちょっと・・・〟などと呑気(のんき)なことを言っている。私より4才年上の81才の男が危険も顧(かえり)みず、青い軽トラで救急車を必死に追いかけている姿などユーモラスで、とてもいいではないか。こういう一途で、少年っぽいところが長く交流が続いてきた遠因であるのかもしれない。






2023年11月13日月曜日

 コラム347 <自然の摂理に従う> 


 樹々や草花は不平を言わない。

 動植物は愚痴を言わない。

 訪れる状況の中で、淡々と生きている。

 生きられるだけ生きて、死期が来ればそれに従う。自然の摂理に従って淡々としている。


 それに比して犯す罪がはるかに深く重いのは人間である。他の動植物の生存を脅(おびや)かし、地球そのものをも破滅させかねない程になってしまったのだから・・・。SDGsなどと今頃騒ぎはじめても疾(と)うに遅いのかもしれない。

 人間が作り出した欲望に歯止めのかからぬ現代資本主義社会は、結局止めるすべを持たない程肥大化し、幾多の罪を積み重ねてきてしまったのだから・・・。海に対しても、山に対しても、緑地や地下に対してまでも自然の摂理を破壊し続けてきた。それを誰が発展と呼ぶだろう。


 不知足(足るを知らず)は人間の生き方。

 知足(足るを知る)は動物の生き方。

 〝淡々と生きる〟とは不知足、知足をも超えている。ゴータマブッダは、人間が知足の存在となるように説いたが、2000年以上経った今、人類の現状は悲しいかなこの通りである。





2023年11月6日月曜日

 コラム346 <感謝の意味について> 


 人は ありがとうの数だけ賢くなり

    ごめんなさいの数だけ美しくなり

    さよならの数だけ愛を知る


 映画監督大林宣彦さんの言葉だそうである。上の姉が教えてくれた。


 食事の前に感謝の祈りを献げる。

 今日一日の命を支えられたことに対して、多くの好意と善意に囲まれていることに対して、特に世話をかけた人々の親切に対して、そしてこの苦しみに耐え続けている自分の心と体に対して・・・。

 だが一口に食事とは云っても、肉でも魚でも野菜でも、私の、あるいは我々の命を支えるために他の命を戴いていることにかわりはない。

 だからこの命達が私の体内に入って形を変えて、病を癒し、その力をもって人々の幸せのために働くことができる身体になれるようにと、祈る。


 感謝の祈りを献げている内に、ふと気づいたことがある。感謝の中にはそのすべてに対して謝りの気持が含まれている、と。

 文字通り、謝意には〝ありがとう〟という感謝の気持と同時に〝ごめんなさい〟という謝りの気持の相方が重なっていてこそ真の感謝の祈りなのだ。


 人間に食べられるためだけに育てられ、食材としてその命を犠牲にする ─── それを人間は自らの命の糧として戴くのだから、人間は自分に与えられた資質を通して何かのためにせいいっぱい献身しなければならない存在なのだ。そのためにはまずは自分を生かすこと、そして他人のため、苦しんでいる人々のために少しでも役に立てる状態に早く恢復することだ。そう気付かされた今、それを為せぬまま死ぬ訳にはいかない ─── 私は、そう思っている。約6年前に脳出血で倒れて以来、ほんとうに沢山の人々の世話になってきた。その人達の助けがなければ、私の日常生活は成り立たない。だが、世話にばかりなっているというのは切ないものだ。今のこの私にできることは何か?と自問するが自問するだけ、切なさが募る。

 人間はやはり、人のためになりたいと望む生きものなのだ。だがそれがほとんど出来ないのが辛い。大林宜彦さんの言葉のようにスマートにはなかなかいかない。が、おそらく上記の言葉が真実なのだろう。