2016年5月30日月曜日


コラム 39 <人間っていいなあ> 

人間であってよかった……と思う瞬間がある。
それは
     美しい音楽に出会った時
     美しい器に出会った時
   そして
香り高き本に出会った時 

人間っていいなあ……と思う瞬間がある。
それは
     きれいな心に触れた時
     やさしい心に触れた時
      そして
 滲む涙に触れた時 

人間に一歩ずつ近づく
     近そうで遠い道・・・・・遠そうで近い道

2016年5月23日月曜日


コラム 38 <秋田第2放送そして二本の川-その②>

私は秋田県の湯沢市に生まれた。小学三年の夏に、今は横手市に合併されたが隣町の十文字町に引っ越した。
その家のすぐ裏には二本の川が流れていた。一本の方にはフナやドジョウが沢山いて、雨あがりには小さな魚が網いっぱいにかかったものだった。水も比較的きれいで水量も多かったから、小さい頃にはその川で泳いだり、広くもない橋の下を潜ったりして遊んだものだ。もう一方は川というよりも自然にできた細い水路(この地方ではせきと呼んでいた)のようなもので、どこから湧き出ていたものか深々と透明な冷たい水をいつも湛えていた。清過ぎて魚はいなかったが、夏にはキュウリやトマト、スイカなどを浸けてよく冷やしたものだった。 

だがある日、裏手に豆腐屋が出来た。その頃は廃水規制など無かったから二本の川はたちまち濁り、澱んで、川底は白い豆腐滓でおおわれた。ドジョウ達は口をパクパクし浮いたり沈んだりしながら喘いでいた。今もその時の光景が脳裏に焼きついている。最後にはどういう訳か小さなドジョウの子どもばかりとなった。
何年もしないうちに川は完全に死んだ。あの泳いだ川も、清冽な湧き水のせきも想い出の彼方に消えた。今はその面影すら無い。こんな残酷な光景は日本の至るところにあっただろう。
あの川で死に絶えていったドジョウやフナ達は、人間達をどのように見ていたものだろう。半世紀前の話である。こんな小さなことばかりではない。償いようのない罪を人間は自然に対してどれ程犯してきたことだろう。

2016年5月16日月曜日


コラム 37 <秋田第2放送そして二本の川-その①>  

これが不思議なのだ。私の山小屋は長野県と山梨県の県境に位置する八ヶ岳山中の、中でも長野県側にある。ここでNHKラジオ秋田第2放送が聞こえる。そんなこと何ら不思議ではないと思われるかもしれないが、すぐ近くには岡谷・諏訪放送局があり、伊奈、駒ヶ根、松本だって近い。なのにこのいずれもが全く入らず、一番よく聞こえるのが秋田局ときている。時間帯によっては東京局と大阪局がかすかに入る。
周波数を調べてみた。 

(周辺)         (遠方) 
岡谷・諏訪局  1359     秋田局  774
伊奈局     1539     東京局  693
松本・駒ヶ根局 1512     大阪局  828
飯田局     1476
長野局     1467         
       甲府局     1602

このように周辺にはここを取り囲むように沢山の局があるというのに、チューニングしてみても全くキャッチしない。甲府は山向こうだから無理もないし、他の局との間にも山あり谷ありだから判る気がするが、わからないのが岡谷・諏訪局だ。諏訪など眼下に見える程だし、山小屋とこの局との間には山らしい山は無いのだから不思議だ。
また東京、大阪局が入るのはきっと電波塔が高いからであろうとも思うが、それでもこことの間には電波塔どころではない高い山々がいくらでもあるのだから、考えると余計に判らなくなる。それにしても野越え山越えはるかに遠い秋田局が一番よく入るというのはどういう訳か。

〝遠くの秋田がはいるのにどうして近くが入らないのか〟とNHKに電話をして尋ねてみた。電波係が時間をかけて調べてはくれたが、はっきりしたことは判らなかった。 


秋田は私の故郷だから応援してくれているのか・・・・・などと冗談まじりに考えていたら、突然若い頃の秋田の家のことを想い出した。

2016年5月9日月曜日



コラム 36 <賢者の条件> 
 
               それは
                  知足
                   知不足 

 
                即ち
                  足るを知り
                   自らの足らざるを知ることなり。
 
 
 

2016年5月2日月曜日


コラム 35 <侘び・寂び> 

ワビもサビも、あれは金持のやることでね。貧乏人が侘びても侘びしいばかりで、だいたい様にならない。金持でなくてもいいけれど、少なくとも心の方だけは豊かでないとね。 

侘び茶を完成したと言われる利休さんも、その師匠の紹鷗さんだって、金持だからね。茶の湯の道はだいたいそうだね。北野天満宮の大茶会に野点の席を連ねたというノ貫(ヘチカン)みたいな変わり者もいるけれど、しかし詳しくは知らないが、根が貧乏ではあのような侘びに徹した茶は点てられない。一方、ワビにもサビにもからっきし縁のない大金持もいる。面倒だから併せて〝ワ・サ・ビの効かぬ人間〟と云おう。 

 
磨きに磨きをかけて・・・・・っていうのも、同じ注意が必要だ。中身が無いのに磨いてばかりいると、磨り減るばかりでね。何でも中身が肝心ってことだ。