2017年10月30日月曜日

コラム 113  一汁一菜魚一っ切れ  

最初に断っておくが、一汁一菜を一椀の汁と一種類の菜っ葉だと思っている人がいるようだが、菜は前菜の菜・惣菜の菜であり、おかずの意味である。 

私の山中での朝食は一汁一菜とまではいかずともほとんどそれに近く、一汁一菜魚一っ切れ、といったところだ、こうした生活が自分には合っているらしく、約一ヶ月の間に体重が3キロは減り、肉体・精神共に良好な状態を保つ。


毎日食いたいだけ食って、飲みたいだけ飲んで精神修養ができない理屈はないが、それは無理だ、と私は体験上思う。少なくとも飲食は慎み深くなければ精神の修養にはならないだろう。
聖職者に妻帯を許さぬ宗派は少なくない。シスターに至っては夫帯が許されないということになるのだが、これなど神に己を捧げる身であるとか、淫に陥りやすいなどの理由からだけでなく、飲食という一点からだけでも頷けるものがある。 

妻がいて、あるいは夫がいて、家族がいて一汁一菜という訳にはどうにもいかないのである。いかに侘びた境地に達していても、客と家族がモリモリ食べている脇で、一人離れたちゃぶ台でポツンと一汁一菜の生活を続ける訳にもいかない。もしもそんなことをしたなら〝あのぅ・・・・・お宅糖尿病ですか?〟などと言われるのが落ちだ。
覚悟があってのことなら別だが、いかに精神にいいとは判っていても会食に毎度一汁一菜ではそれこそ〝冷エ・凍ミ・侘ビ・枯レ〟の合わさった侘びしい心境にもなるだろう。 

このように考えると、精神生活というものは余程の偉人でもない限り独りで居る時間を確保しなければなかなかむずかしいものだ、と思えてくる。それがほとんど失われている現代にあっては尚更である。それ以上に忙しい、忙しいと言っている内に、我々は独りでいられない人間になってしまっているのではないか。現代人の精神の衰えはこのことと深く関係しているのではないかと思う。

2017年10月23日月曜日

コラム 112  少し政治的な話を・・・・・   

こんなに頭のよさそうな人がそろっているのに、人も秩序も経済もさっぱりよくなっていかないのはなぜなのだろう。 

話している特に政治家達の顔をじっと見る。
あぁ、なるほど・・・・・
 みんな〝自分は頭のいい人間だ〟と思い込んでいる。
 みんな〝自分は正しいことを言う人間だ〟と思い込んでいる。
 みんな〝自分は人間が出来ている〟と思い込んでいる。
だから人の話を聞かない。人の話に耳を傾けない。みんなの知恵と力を合わせなければ何もできないというのに・・・・・。
 自分だけでは何もできない、自分達だけでは不十分だ、と思わないから連携が生まれない。相手も同様に思っているから協力も生まれない。その代わりに生まれるものは、対立と抗争だ。昔から何も変わらない。 

本当に頭がよくて、本当に出来た人なら、人の話をよく聞き、人の話によく耳を傾けるだろう。そう出来ないというのは実際はそうではないのに、そうだと思いこんでいるせいだ。偉くもないのに偉くなった人間はみんなそうだ。耳を傾け、よく聴けば立つ瀬が無くなる……だから思い込むしかないのだ。これは頭の良し悪しというより人間の器量・度量の問題だ。 

出来ていない人間が人の話を聞かずにどうするというのだろう。
私は思う。政治家も、それを選ぶ国民も、教育者も事業家も〝まずは人間づくり〟を人生の屋台骨に据えなければ、この国は益々危ういことになっていく。そして、やがて再び戦の時を迎えるだろう。真の自分を見誤ることほど怖ろしいことはない。 


「国民の皆さんの・・・・・」
政治家達はよくこの言葉を使う。
国民の皆さんの切なる願いは・・・・・
 国民の皆さんの求めているところは・・・・・
 国民の皆様の意見にしっかりと耳を傾け・・・・・
日本は民主国家である(ということになっている)からこうした言動におかしなところは無いのだが、間違えてはならない。民主国家とは大衆国家のことではない。単に賛成多数で物事が決まっていくなら、それは明らかに民主主義ではなく、大衆主義というべきだ。もしそれで良しとするなら、前提に少なくとも大衆の中に正しい民衆の眼があることが条件だ。もしそれは適わぬことであるというならば、少数意見の中に正しい民衆の意見を見ることが必要である。
多くの政治家達の胸の内に「民主」という言葉はどのように写っているのであろう・・・・・この言葉だけが空虚に空を舞っている。

2017年10月16日月曜日

コラム 111  人の道 その⑤ 物心一体   

旅には捨てる直前の下着類を持ち、その場その場で捨てて来ると言う。洗わなくていいし、持ち帰る手間も省けて合理的じゃないか、ということらしい。
だが、私は仮に使い古したものであっても、旅先でそのまま使い捨てという気分にはなれない。破れたり、擦り切れたりしてもう限界を迎えた時でも、必ず洗濯し、感謝の念を込めて、それから処分する。
こんなことは人間として当り前のことだと思っていたが、こんな風に思う人は年々減っているらしい。これも使い捨て時代の影響だろうか。
今まで長く世話になってきたものだ。捨てる前に清めの塩を振ってとまではいかないが、もう用無しとばかりにゴミ箱にポイ捨てではどうも心が許さない。人としてのあるべき姿からどこか外れているからなのだろうと思う。 

 
今年の二月にスキー部(住まい塾にはスキー部がある)の合宿で訪れた志賀高原・丸池ホテルのレストランでは金継ぎ補修された器が少なからず使われていて、経営者の人柄と器への思い入れが感じられて爽快だった。
よきものを選び、愛着をもって使い、粗相の無いように扱う。これはモノに対する人間側の最低限の礼儀である。高価なものであろうと、安価なものであろうと気に入って使い始めたら最後までよきつき合いをしたいものだ。物心一体という言葉が甦ってきた。

2017年10月9日月曜日

コラム 110   

もっと生きなさい と言われたら
そのようにし
早くこちらに来なさい と言われたら
そのようにし
すべて 天の意思まかせ
許されている限りのせいいっぱい
そんな気分でいつもいる。

 怠惰な人生は いけないよ。

2017年10月2日月曜日

コラム 109  漢字に遊ぶ その② ―痴―  

知識が高ぶりにつながったり、物知りであることを鼻にかけたりして知が病になれば、「痴」即ちおろかという字になる。古くから学者、物知りがいましめられてきた所以(ゆえん)である。
知ることは知識に始まり、人間的な広がりを身につけて知恵となり、やがて生きる上での真の力・深さともなって智慧となる、などと言われる。別の表現をかりれば、知識は行を通じて知恵となり、さらなる精進を重ねて智恵となり、それが醸成されて真の智慧となるとも言われる。
こうなってこその知であるのだが、しかし我々の知は余程気をつけなければしばしば痴に向かう。いかに商いの才に優れ、財を積み、博識、権威を身につけても、徳が出来なければ人間の成功者とは呼べない、ということである。特に今日、知の病に陥っている人を多く見かけるようになった。 


「痴」は又「癡」の俗字ともいう。
「痴」は元「癡」と書かれていたところを見ると、痴とは人を信ぜず、疑い深い病だと遊び解釈することもできる。このような解釈は的を外れたものであるかもしれないが、しかし今日的解釈として真実が含まれている。
痴(=癡)には
    おろか(愚)
    くるう
    仏教では三毒(さとりをさまたげる三種の煩悩)貪(ドン・むさぼり)・瞋(シン・いかり)・痴(チ・まよい) のひとつ、と『漢語林』にはある。
音痴・愚痴・白痴 の痴であり、痴漢・痴情・痴人・痴態・痴呆・痴話 の痴である。
因みにチカンをなぜ「痴漢」と書くのかと調べてみたら、漢には男という意味がある。即ち痴漢とはおろかな男のこと、これが国訓では、婦人にいたずらする男を意味することになる。
漢を中国を意味するものとして、これを差別用語のように誤解している人もいるようだが、それとこれとは無関係のようである。そう判ってホッとした。