2023年12月25日月曜日

 コラム353 <愚痴を零(こぼ)すまい>


 愚痴を快く聞く者はいない。自分のことでも、他人のことでも。個人、夫婦、家庭、仕事場、心優しい人間の集団であるはずの病院や介護の世界においてすら、そうである。ゴータマブッダが人間の三毒とされた貪(トン)・瞋(ジン)・癡(チ)については以前記したが、愚痴はこの三つ(貪欲/怒り・憎しみ/無明)に跨(また)がって発生するものである。だから快く響かないのは尤(もっと)もなことである。いかなる場合でも愚癡は快く響かない。それはなぜかというと人間の心の幸せと逆行するからである。心して愚癡を言葉にするまい。言葉となる前にすでに心の中で愚癡の渦が立っているからである。 





2023年12月18日月曜日

 コラム352 <出版文化の衰退②──人間が人間らしくあるために> 


 私は出版文化の急激な衰えを憂えています。40年近く交流を続けてきた八ヶ岳山麓の今井書店もこの三月でとうとう店を閉じました。どの位衰えているのかは私には判りません。しかし本が読まれなくなり売れなくなって、町場の書店がどんどん消えていっていることだけは事実です。


 私が学生だった頃は月刊の建築雑誌を3冊も4冊も定期購読したものですが、今は建築科の学生ですらそんな定期購読者は激減していると聞きます。金額的に見ると、その分スマホに消えている計算になります。


 住まい塾では住宅の「設計者養成塾」を長年続けていますが、その養成塾で私が冗談まじりに〝一流の住宅設計者を目指そうというんなら、ユニクロパンツなどはいているんじゃないぞ!〟と言ったら〝タカハシさんは何をはいているんですか?〟と質問が出た。私はこれも冗談まじりにですが

  〝KENZOよ〟と答えたら返ってきた言葉が

  〝えっ、丹下健三さんって、パンツのデザインもしているんですか?〟

世代の差とはいえ、開いた口が塞がらないとはこういうことを云うのでしょう。

 私は先般新型コロナウイルスで亡くなられた国際的なファッションデザイナー高田賢三さんのことを言ったつもりでしたが、今の建築科の学生は建築についても、他分野についても全く関心も勉強も足りません。4年間何をしてきたの?と唖然とすることが少なくないのです。

 こうした現象と出版文化の衰えとはどこかで通底していると感じるのは私だけでしょうか。


 出版界の名門岩波書店も存続の危機をささやかれた時期がありました。あまり大衆受けしないような価値ある映画を、それでも観て欲しいと上映し続けた「岩波ホール」も閉館しました。東中野にもそのような映画館がありましたが、今はどうなっているでしょう。


 我々は何を得、何を失っているのでしょうか?それこそどうでもいいことを沢山得て、失ってはならないものを失い続けているように思えてならないのです。

 地球壊滅は人間解体と歩調を合わせてやってきます。人間が何を養い育てるべきかは、胸に手を当てて考えれば、皆すでに判っています。人間であること、人間らしくあることを人生の中で深めること──それ以上に大切なことが、どこにあるというのですか?この地球上に生まれ出た意味と価値が、無知・執着、物欲にあるなどと教えた時代がどこにあったでしょうか。





 


2023年12月11日月曜日

 コラム351 <出版文化の衰退①──よき本をもっと読みましょう>


 本の時代は過ぎ去りつつあります。日本の書物は昔は毛筆書きの和綴(わと)じであったし、同内容のものを手元に置くには所有している人から借りて、写本をするしかなかったのです。その苦労によって、身につくことも大きかったでしょうし、受けた影響も深かったに違いないのです。

 しかし大量に機械印刷され、本も安価に手に入り、気軽に読めるようになった分、得たものも大きかった代わりに、それ以上に失われたものもきっと深かったに違いないのです。そして今日、本が売れない時代となりました。多くの人が本を読まなくなったからです。必然多くの出版社が苦境に立たされています。出版文化の衰退は、人間精神の衰退に直結します。


 今多くの人が相手にする「Amazon」も巨大な本屋さんのひとつだという人もいますが、町場の大型書店とも違うし、本がこよなく好きで書店を始め、長い時をかけてやっと大きくなった大型書店とも性格を異にします。

 新刊本に限らず中古本・古書なども、だいたいが即検索できて、しかも家に居ながらにして数日内には届くというのですから、便利この上ないとも云えますが、こんなことで本当にいいのか、と私は思います。こうした便利によって足を掬(すく)われて失われたものも沢山あったことに、我々は気づいていません。

 これを流通改革の勝利などと呼んでいいものかどうか、他の世界と同様、地道に積み上げてきた町の本屋さんをどんどん駆逐(くちく)していく姿にITの勝利などと拍手を送る気持には私は到底なれません。小規模な町の本屋さんと市井(しせい)の人々との素朴なふれあいの寸断。私が40年近く親しくしてきた信州八ヶ岳山麓の本屋さんも、ついにこの三月で閉店に追い込まれました。さまざまに工夫し、努力してきた本屋さんだっただけに、私の思いは時代の流れというだけでは片付けられない憤りにも似た思いが入り混じって複雑です。


 古くから人間が人間として成長するのに果たしてきた大きな力は価値ある本にあったからです。それは人間と人間の出会いに近かったのです。よき本を読みましょう。価値ある本を読みましょう、そして人と人との出会いを大切にしましょう。そうした場を大切にしましょう。


 私の訴えはきわめてシンプルです。部屋に居ながらにして翌日には届くのがそれ程ありがたいことですか?そんなこと、どうってことないじゃありませんか。人と人との関係を大切にしながら、よき本をもっとじっくり読みましょう。





2023年12月4日月曜日

 コラム350 <読んで知ること、と身につくこと> 


 私はこれまで仏教関係の本や、キリスト教関係の本、その他人間の生き方に関する本を随分読んできた。教えられることも多かったが、今にして痛感するのは「学び・知る」ことと「身につく」こととの違いである。


 「身につく」とは日常生活の中で自然な形で実践できるようになることである。「知ること」は学び、研究すれば、程度の差こそあれ誰にでもできることだが、自然な形で実践できるようになるまでに「身につく」となると、これは容易なことではない。専門学者の中に知識人多くして、実践者が少ないのはそのためである。その時、知は「痴」となる。痴は癡とも書くが、知は古(いにしえ)から知る病、疑う病に陥(おちい)りやすい、との認識がどこかにあったのであろう。


 仏教では人間の三毒を貪(とん=貪欲)、瞋(じん=怒り・憎しみ)、癡(ち=無明:ものをありのままに正しく理解しないこと)と云い、その中でも最も根本的なものは「癡」であると云うから、無明を克服するとはそれ程むずかしいことなのだろう。凡庸(ぼんよう)なる人間にはなおさらのこと、しかし与えられた人生の中で、焦らずとも一歩ずつ、この無明脱出のために歩みを進めたいものだ。


 人間としてのあるべき真理を学ぶと云っても、辞典を調べて理解できる程簡単ではなく、多くの書物を読破したところで得られるといったものでもない。実体験を重ねてこそ、やっとその一端が見えてくる類のものだ。このことは、病を得て6年間苦しみと共に歩んできた中で、今身に沁みて感じていることである。

 人間の一生涯に一定の長さが与えられているのはそのためであろうとも思われる。


 私の生家は仏教(道元を開祖とする禅宗:曹洞宗)であったし、母は万教一致を説く谷口雅春氏の「生長の家」の会員でもあった。又、私自身はキリスト教会に通っていた時期もある。ある地域の支部長などをまかされた関係で、その間に得られた経験と心の友は、今も得がたい人生上の宝となっている。為すべき使命を与えられて、せっかく地球上に生まれ出た命なのだから、求めるべきものを求め続け、為すべきことを淡々と為し続けてこの人生を生き切るのだ、と己に言い聞かせている。






2023年11月27日月曜日

 コラム349 <救急車内にも笑いあり その②> 


 転倒と言えば、これまで幾度転倒したか知れない。コンクリートの床に頭をぶつけること三回、庭先のごろた石に頭をぶつけて流血三回、その他山中での散歩中や室内での転倒を数えると20回ではきかないかもしれない。強打した時などその都度MRIを撮って確認したが、私の頭の骨は脳内と同様よほど固く出来ているらしく、異常が見つからない。〝こんどは石の方を割ってやる!〟と豪語したほどである。

 今回は脳梗塞と硬膜下血腫が疑われたが、特別新しい徴候は見当たらないという。自分では頭、肘、肩、尻、手首などさまざまなところを打撲しているから、身体全体のバランスが崩れていると感じる。左マヒ側の関節や筋肉のひきつれが強烈で、これを加速させたのは、明らかに三回のコロナワクチンの接種である。


 〝笑いは副作用のない薬〟というがどんな中にも笑いの種はある。笑える時は笑うことである。それにしても長く続くこの苦しさには、さすがに私もへこたれそうである。





2023年11月20日月曜日

 コラム348 <救急車内にも笑いあり その①>


 9月初旬から1か月余り、緊急入院を余儀なくされた。9月2日の明け方4時頃、洗面所からの帰り、転倒を繰り返して、これは異変が生じたと感じたからである。脳出血の後遺症には違いないのだが、やっと立ち上がってベッドに向かおうとするが、体のバランスが崩れて、すぐまた転倒する。これを三度繰り返した。チェ・ゲバラのことを思い出し、ならばと試みたが、左半身マヒの身に匍匐(ほふく)前進はままならなかった。


 ここは基本的に別荘地である。あまり早い時間では住民を驚かすことになるから、七時頃まで待って救急車を呼んだ。

 転倒はこのところ平均週一回程度だった。今週は転倒しないのを目標にしましょうよ、と週二回来てくれている訪問リハビリの療法士(セラピスト)と話していた矢先のことであった。〝名前が修一だから、週一回転倒するのかなあ・・・〟などと冗談を言っていたのに、この始末である。


 長い間親しくしてきた近隣の馬場夫妻が、ご主人のブルーの軽トラですぐに駆けつけてくれた。連れ合いは横浜の方に帰ったばかりであったから、救急車には奥さんの千恵子さんが同乗してくれた。しばらく走ってから、救急隊長曰く、

〝うしろに付いてくるあのブルーの軽トラは、お宅の御主人ですか?〟

〝救急車は交差点でも優先権がありますが、一般の車は赤信号では止まらなきゃいけません。救急車のうしろに付いて来るのが一番早いでしょうが、危ないですから救急車を停めて注意してきます・・・〟

 私は担架(たんか)に横になりながら、千恵子さんと一緒に笑った。我々は救急車の中で隊長が救急病院とやり取りしているから、どこの病院に向かっているか判っているが、御主人の東彦(はるひこ)さんはどこに向かっているのかを知らないから、はぐれたら大変とばかりに必死に付いて来たのだろう。


 東彦さんは私が長い間別荘地の住民の会の会長を務めていた間、事務局長を務めてくれた方である。千恵子さんは〝最近ああいうところがね・・・ちょっと・・・〟などと呑気(のんき)なことを言っている。私より4才年上の81才の男が危険も顧(かえり)みず、青い軽トラで救急車を必死に追いかけている姿などユーモラスで、とてもいいではないか。こういう一途で、少年っぽいところが長く交流が続いてきた遠因であるのかもしれない。






2023年11月13日月曜日

 コラム347 <自然の摂理に従う> 


 樹々や草花は不平を言わない。

 動植物は愚痴を言わない。

 訪れる状況の中で、淡々と生きている。

 生きられるだけ生きて、死期が来ればそれに従う。自然の摂理に従って淡々としている。


 それに比して犯す罪がはるかに深く重いのは人間である。他の動植物の生存を脅(おびや)かし、地球そのものをも破滅させかねない程になってしまったのだから・・・。SDGsなどと今頃騒ぎはじめても疾(と)うに遅いのかもしれない。

 人間が作り出した欲望に歯止めのかからぬ現代資本主義社会は、結局止めるすべを持たない程肥大化し、幾多の罪を積み重ねてきてしまったのだから・・・。海に対しても、山に対しても、緑地や地下に対してまでも自然の摂理を破壊し続けてきた。それを誰が発展と呼ぶだろう。


 不知足(足るを知らず)は人間の生き方。

 知足(足るを知る)は動物の生き方。

 〝淡々と生きる〟とは不知足、知足をも超えている。ゴータマブッダは、人間が知足の存在となるように説いたが、2000年以上経った今、人類の現状は悲しいかなこの通りである。





2023年11月6日月曜日

 コラム346 <感謝の意味について> 


 人は ありがとうの数だけ賢くなり

    ごめんなさいの数だけ美しくなり

    さよならの数だけ愛を知る


 映画監督大林宣彦さんの言葉だそうである。上の姉が教えてくれた。


 食事の前に感謝の祈りを献げる。

 今日一日の命を支えられたことに対して、多くの好意と善意に囲まれていることに対して、特に世話をかけた人々の親切に対して、そしてこの苦しみに耐え続けている自分の心と体に対して・・・。

 だが一口に食事とは云っても、肉でも魚でも野菜でも、私の、あるいは我々の命を支えるために他の命を戴いていることにかわりはない。

 だからこの命達が私の体内に入って形を変えて、病を癒し、その力をもって人々の幸せのために働くことができる身体になれるようにと、祈る。


 感謝の祈りを献げている内に、ふと気づいたことがある。感謝の中にはそのすべてに対して謝りの気持が含まれている、と。

 文字通り、謝意には〝ありがとう〟という感謝の気持と同時に〝ごめんなさい〟という謝りの気持の相方が重なっていてこそ真の感謝の祈りなのだ。


 人間に食べられるためだけに育てられ、食材としてその命を犠牲にする ─── それを人間は自らの命の糧として戴くのだから、人間は自分に与えられた資質を通して何かのためにせいいっぱい献身しなければならない存在なのだ。そのためにはまずは自分を生かすこと、そして他人のため、苦しんでいる人々のために少しでも役に立てる状態に早く恢復することだ。そう気付かされた今、それを為せぬまま死ぬ訳にはいかない ─── 私は、そう思っている。約6年前に脳出血で倒れて以来、ほんとうに沢山の人々の世話になってきた。その人達の助けがなければ、私の日常生活は成り立たない。だが、世話にばかりなっているというのは切ないものだ。今のこの私にできることは何か?と自問するが自問するだけ、切なさが募る。

 人間はやはり、人のためになりたいと望む生きものなのだ。だがそれがほとんど出来ないのが辛い。大林宜彦さんの言葉のようにスマートにはなかなかいかない。が、おそらく上記の言葉が真実なのだろう。





2023年10月30日月曜日

 コラム345 <ケータイ・スマホの苦痛> 


 ケータイのうっとうしさが年々増加の一途を辿(たど)っていく。不自由な身体で電話の間を、あっちに動き、こっちに動くだけで息が切れる。移動するのがやっとなのだから・・・。話すだけでも息が切れる。椅子に腰掛けていても30分が限界だ。だがそんなこと相手が知る由もない。だから平気で長話しする。

 結果、便利が苦痛になることの方が、私の場合圧倒的に多いのである。たまらない!

 山中に行けば、静寂な時間が手に入るかといえば今は大違いだ。体調が悪い時などは、たて続けに電話がかかってきたりすると、〝どうでもいいから、静かに一人にしておいてくれ!〟と叫びたい気分になる。自分がなってみないと判らないことだけに、病んだ人間の心中を汲むとはなかなかできないことだと痛感している。ちょっと昔でいえば〝電話魔〟と呼ばれておかしくないような人間が今や大勢いる。嘆(なげ)かわしいことだ。



 



2023年10月23日月曜日

 コラム344 <ガラ系ケータイ電話 ── さらにスマートフォン> 


 柄もないのになぜガラ系なの?などと思っていたら、ガラパゴスから来ているんだってね。最初は文明に取り残された・・・という意味だったのだろうが、どうしてどうして、今や生物多様性の面からもSDGsの面からも世界の最先端ではないか。


 5年前の入院生活をきっかけに、コロナ騒ぎも手伝ってケータイを持たざるを得なくなった。外部との通信手段を失ったからである。

 それでも私は、未だに掛ける、受けるしか使わないが、最近いじっている内に自然に電話帳なるものを使えるようになった。


 今山小屋に来て痛切に思うが、ケータイを持つ前の固定電話時代までは、山小屋の電話はめったに鳴ることがなかった。それが、ケータイを使うようになって5年たった現在、かかってくる電話は優に5倍は越えているだろう。それにつれて、こちらも掛ける。


 仕事が急に増えた訳でなし、掛け放題だのという制度が、こういう軽佻浮薄(けいちょうふはく)な現象を生むのだろう。


 確かに私の生活もすっかり変わった。

   ・訪問マッサージ:週2回

   ・訪問リハビリ:週2回

   ・訪問特殊施療:週1回

   ・夕方からの訪問生活介護(夕食づくり・掃除・洗濯・買物):毎日

   〇ブログ(コラム)のやり取り

   ・仕事上の電話での打合せ

   ・電話会議

その他来客も少なくない。

 上に記した事柄は、〇ひとつを除けば全て私が倒れてから──即ちケータイを持つようになってから始まった事柄である。

 これに加えて、訪ねて来る人は全員スマホを持っているから、もうそれだけで何倍も騒々しくなるのは容易に想像できるだろう。終(しま)いには〝気軽に電話するな!〟と怒鳴りたくなることさえある。


 ゆっくりトイレにも入っていられない始末だ。ハハァ、便利というのは便にも利する、という、こういうことを言うのか、とまたつまらぬことを考えたりする。

 御機嫌伺いの電話も、心配してのことであろうが、あまりに繁雑になると、体調の悪い時など特に、ありがたい、というより、逆に煩(わずら)わしい感じになり、すでに皆せわしない体内時計になっているから、一度かけて出なければ3回、4回とたて続けにかけてくる。ボタンひとつで再ダイヤルが可能だからだ。もっとゆっくり生きようや。(次回に続く)


  


2023年10月16日月曜日

 コラム343 <世話する人とされる人> 


 世話する人は勿論大変だけれど、世話をされる方も辛いよね。ありがとう、と感謝するばかりで、こちらからは何もできないんだから・・・。


 名門ジャズ喫茶BUNCA(バンカ)の元マスター 山口眞さん(通称マコちゃん)は奥さん・千代子さんが思いがけず急逝してしまって、今一人暮らしだ。元々、高血圧と躁うつ気質に苦しんでいたから、さぞや大変だろうと思う。時々電話を入れているけれど、何とか生きているようだ。


 ある日、〝他人の世話になるって、辛いねえ・・・〟とポツリと洩(も)らした。その気持ちが今の私にはよく判る。でもまあしようがない。辛いばっかりでもないのだから、人生をみすみす無駄にするようなことなく、楽しくやろうや。純粋で、娑婆の汚れに染まらなかったマコちゃんの心の中にはJAZZという宝があるんだから・・・。





2023年10月9日月曜日

 コラム342 <あの人の心は病んでいる> 


 〝あの人の心は病んでいる〟などと言います。そんな人がどんどん増えています。

 でも私には、病んでいるのはあの人ではなく、あの人のまわりだと思えます。

 まず、人々の集団が、社会が、地球規模で病んだのです。人間としての価値観が傷つき、歪(ゆが)んで安定を欠き、生物多様性だのSDGsなどと大さわぎするずっと前から、人としての価値観を見失い、とめどなく物欲の世界にのめり込んでいったのです。


 あまり小さな概念に捕らわれずによき人々とのびのびと交流していく中で、〝弱きを強きに変え〟といった努力も現実社会を生きていくには必要でしょう。

 しかし強いばかりが能ではありません。〝強きを弱きに変える〟必要がある人だって沢山います。強い人はそのことに気づきにくいのです。人間としてあるべきように、人間のあるべき真実の姿に近づいていくように、数千年前も昔から言われ続けてきた「中庸(ちゅうよう)」を心がけて偏(かたよ)らず生きていくしか、心の安定を得る道はないように思えます。


 何よりもシンプルに生きましょう。むずかしい哲学書や宗教書、思想書を手にして、むずかしそうな顔をしながら生きるよりも、シンプルな真実を手にして、シンプルな喜びと笑顔で生きていった方が幸せというものです。このシンプルさの大切さに、最近やっと気づくようになりました。「シンプルイズベスト」。一人の心に始まり、場づくりへ、まわりに平和を拡げていきましょう。







2023年10月2日月曜日

 コラム341 <当たり前なことで時を刻む> 


 起きるべき時間に起き

 眠るべき時間に眠る

 食べるべき時間に食べ

 学ぶべき時に学び

 やるべき時にやるべきことをやる

 

 掃除を怠らず

 床に就く前には、一日への感謝の念と一日の反省を心の清掃と心得て忘れないよう心掛ける。

 健康とは当たり前のことを当たり前にできること。健康でありながらそれをしないのを怠惰と云う。

 命はリズムであり、一時も休むことがない。それは自然からの我々への最大の贈り物である。


 悟りへの道を弟子に問われたある高僧・老師の返答は至ってシンプルである。


 〝朝しっかり掃除をしたか? 朝しっかり飯を食ったか?〟


 このふたことには、上記の事柄が全て含まれていたことだろう。

 但し、身体が動けば、という条件付きだ。そのことは決して当たり前なことではない。

 



2023年9月25日月曜日

 コラム340 <殺処分一千万羽?> 


 鳥インフルエンザにより千葉県で40万羽殺処分と聞いて驚いていた。だがこうした事態がどんどん拡大して、またたく間に全国で一千万羽を越えたと云う。

 一千万羽といえば、人間の数でいえばほぼ東京都の人口に等しい。驚いたというよりも人間の身勝手な傲(おご)りに怒りの感情さえ湧いた。大量生産(飼育)── 大量消費が原因の根っ子にあるからである。そもそも殺処分とは何事か。相手は歴(れっき)とした命なのだ。

 

 こんなことが平然と許されていい訳がない。こんなことがしばしば起きるような生活を人間が続けていていい訳がない一羽一羽の治療などより、さっさと大量殺処分した方が早い(経済効率がいい)という訳だろう。牛や豚の世界にも同様のことが為される。彼らは人間にとって食糧ではあっても、すでに命ではないのである。こんな摂理に反する行為が許されると思っているのだろうか?


 人類にも新型コロナが世界的に流行した。同じ命というのなら、こちらもパンデミックに陥らぬように殺処分した方が早いというなら、戦争よりはるかに残虐なこととなるだろう。


 人間は金のためになら何でもやるような生活そのものを変えなければならない。金(かね)・金(かね)・金面(かねづら)が蔓延しているような社会の価値観を変えていかなければならない。


 喰えるだけ喰って、ビヤ樽のようになっていく生活を改めて、知足── 即ち、足るを知る生活に一日も早く切り替えなければならない。それが人類の健康のためにも、目前に迫っている食糧自給問題解決のためにも、最も近道だと知ることが必要だ。

 知足には知力がいる。不知足の世界とは欲望まかせの世界だということだ。


 大食を競い合うTV番組も少なくない。飢餓に苦しんでいる人々が世界に沢山いるというのに、TV局もTV局だ。どうしてああいうバカげた番組を組むのだろう。視聴率が高いということは、見て喜んでいる者がそれだけ多いということであるし、その分広告スポンサーを得やすいことにも通じ、広告代も高く取れるといったことになるのだろう。

 現代社会は総じて知足の人間よりはるかに不知足の人間の多い世界になった。知の力が衰え、精神の力が崩れたからである。





 年々浅はかな金面(かねづら)が多くなっていく傾向にあるのはこうした背景があるからなのだろう。地球をこれだけ痛めつけておきながら、次に月に行って何をしでかそうというのか?人間であること、人間らしくあること、人間にとって最も価値のあることとは何なのかを根本からじっくり見つめ直す時ではないのか。SDGsもやれるだけやればいいが、もう手遅れなのだ。

2023年9月18日月曜日

 コラム339 <病んでいる地球> 


 病んでいる地球

 病ませたのは限りない人類の欲望


 現代の資本主義は1%の超富裕層を生み、とめどなく歪んだ経済格差社会構造を創り出して、もはやなすすべもない状態だ。社会に平安無し。


 気候変動問題も、SDGs等々遅まきながらさまざまな提案が為されているが、世界的同意を得て実効果を上げるのは至難なことだ。

 もう議論している場合ではないのだが、異論がある限り民主社会は議論が続く。やるならやればいいが、もう手の打ちようがない所まで来てしまっているとは大っぴらに誰も言わないけれど、事情に詳しい社会経済学者や地球環境科学者達の多くはそう思っているのではないか。大気中にぼう大な量のガソリンと二酸化炭素をまき散らしながら飛び交う飛行機を止めろと言っても止められないではないか。すべてはそれと同様だ。


 慎ましやかに生きるすべを身につけなければ地球は滅びるのは自明の理である。知足の世界を人間は手放したのである。何千年も前から教えられてきたというのに・・・。





2023年9月11日月曜日

 コラム338 <ホトトギスがしきりに鳴く> 


 雨上がりの霧の中、夕方ホトトギスが一定の場所で盛んに鳴いている。いつもは暗くなりかけた空を鳴きながら飛んでいくというのに、今日はどうしたのだろう。


 カッコウと共に同じカッコウ科のホトトギスは、他の鳥の巣に托卵するという。この辺では托卵相手はウグイスだろう。この時季、ウグイスもよく囀る。

 托卵成功を祝ってのことだろうか。それとも托卵のヒナがかえり、まだ目も見えぬヒナに、托卵相手のウグイスの卵を蹴落すように親鳥がしきりにうながしているのだろうか。

 カッコウやホトトギスのこの奇妙な習性を、私はどうにも好きになれない。


 「托卵する時に、まず相手の卵を抜き取り、その卵をくわえたまま産卵する。托卵にかかる時間は10秒ほど」という。「カッコウの卵は、托卵相手のものより2~3日早くふ化する」「生まれたヒナはふ化後2~3日目に、托卵相手の卵を巣の外に押し出し、巣と仮親からの給餌を独り占めする」(以上、「ヤマケイポケットガイドブックガイド⑦野鳥」から)

 信州も6月梅雨入りだそうだ、7月中旬までは続くだろう。標高1600メートルのこの辺りは冷たい雨がしとしと降り続いて靄(もや)がかかっている。この中で繰り広げられる惨酷な一幕である。毎年この時季、私の気分も靄の中である。(6月下旬に記す)




2023年9月4日月曜日

 コラム337 <キジバト君> 


 キジバトが空っぽのエサ台近くに飛んできてじっとしている。


   〝ハトちゃん、オハヨウ!〟

   〝でもねえ、そこまで歩いていけないから、エサあげられないんだよ・・・〟


 ちょっと首を振ってから

   〝どうしてくれないの?〟

という顔つきでまたじっと私を見ている。


 人間であるこの私と、鳥類であるこのキジバトとは何が通じているのか判らないが、何かが通じている。そんな表情をしばしばするから・・・。長いつき合いだもんねぇ。





2023年8月28日月曜日

 コラム336 <初めて出会ったヤマネ君> 


 年の半分を山に住むようになってから約40年、写真集や近くの人の話では何回も見たり聞いたりしているヤマネ君。念願かなって今年7月、初めて出会う事が出来ました。

 山の小ネズミ達もかわいいものです。全体に茶系、腹の辺りが白。とても小さく、あまり人間を怖れる気配もなく、デッキに出している折り畳み式椅子のキャンパス地の中にもぐったり、ひょっこり顔を出したりする姿は実に愛くるしいものです。私が本を読んでいると手すりづたいにテーブルに乗ってきたり、慣れてくると手からヒマワリのエサを食べたりします。色といい、小さな体躯といい、すばしっこい挙動といい、一冊の絵本でも書けそうな程それはそれはかわいいものです。


 この小ネズミ達にはこれまで幾度も出会ってだいぶ仲良しになりましたが、ヤマネにだけは一度も出会ったことが無かったのです。

 小ネズミよりさらに小さく、茶系の毛に背中から長い尾先まで黒っぽい線が一筋入っていて、ネズミというよりリスのミニチュアと呼ぶに近い印象です。洗面所の扉の裏に居て、下のすき間から尾先だけチョロチョロ顔を出すのです。

 中に入ったら桧風呂の縁(ふち)を伝い、窓から飛び出ようとして何度も何度も跳ねるのですが、ガラスに阻(はば)まれて外に出られないのです。


 押し倒し窓を少し開けて、出やすいように風呂の桧の蓋(ふた)を橋渡しにかけておいたら、やっと外に飛び落ちるようにポトリと音を立てて出ていきました。ホッとしました。

 ヤマネは山鼠と書きますが、冬眠鼠とも云うようです。明らかに小ネズミとは別種です。冬は冬眠するのです。雪の中で丸まって眠っている姿の愛らしさは格別です。


 ここに載せてあるのは私が撮ったいたずらっ子の小ネズミ達です。残念ながらヤマネの写真が無いので、何かで見て下さい。かわいいですよ。

 






2023年8月21日月曜日

 コラム335 <野生種・天然ものと人間> 


 草花にも野生種と栽培種がある。

 茸にも天然ものと人工栽培物がある。

 さて人間はどうなっているのか?


 最近私は、人間の多くが野生種・天然ものから次第に離れて、見た目には人間のようでも、何か得体の知れない人工栽培もの・栽培種に向かっていっているのではないか、いやすでにそうなっていると思われて仕方がないのである。


 縄文・弥生時代の人種とは徐々に違ってきたのはいたって自然なこととして、こと近代・現代になって急速にこの野生・天然即ち種としての自然が遺伝子操作を受けたかの如くに変異してきたのである。





 私はこういう事態を薄気味悪い思いで感じ取っている。野生種の血を引く天然ものの人種の行きつく先は・・・というよりも行きつかぬまま破滅すると予感する。人間が人間として夢を描ける時代は過ぎ去ったのだ。今は天の意志でも制御できない得体の知れない何か見えない力に引きずられるように、自走し始めたのである。


 人間よ、自然を取り戻せ!

 人間よ、野生を取り戻せ!

という声は天空の彼方に空しく吸い込まれていく。

 これが最近の私の実感である。