2023年6月26日月曜日

 コラム327 <白井晟一の想い出 ⑦>         ───明治気質と天才のおかしみ その2───


 ある日親和銀行から電話がかかってきた。どうも預金の残高不足の連絡のようだった。親和銀行とは長崎佐世保に本店があり、白井晟一は本店に第一期・二期・三期と十数年がかりで関わり、それ以前にも銀座東京支店、長崎の大波止支店をも手がけている。

 電話がかかってきた時、偶然私もリビングに居たからこの話が聞けたのだが、この時の白井晟一の応対がおもしろかった。

  〝残高不足?〟

  〝君ねえ、君のところとボクとは何年の付き合いだ⁉足りなかったら補充しておきなさい‼〟

 脇で私はおかしさをこらえながら聞いていた。どこから補充しろってんだろう。電話をくれた担当者もさぞかし困ったに違いない。こういうところが天才の天才たる所以(ゆえん)であると思われて、おかしかったのである。





2023年6月19日月曜日

コラム326 <白井晟一の想い出 ⑥>        ───明治気質と天才のおかしみ その1───


 ある日居間に呼ばれた。

  〝最近電気が暗いんだ、電圧が下がっているんじゃないか、東京電力を呼んで調べさせなさい〟

 翌日東京電力の社員が三人見えて、目白通りに面した高い電柱に登って、上の方の黒い変圧器(かどうかは知らない)を計器をもって色々調べていた。調べ終えて白井晟一に言うには

  〝どこも異常はありません。電圧も正常ですし・・・〟

これに白井晟一は

  〝君ね、長いこと住んでいる私がここのところ暗いと言っているんだよ。それが異常ありませんとは何だ。異常が見つかりません、ということだろう?君達はそうやって色々計器などに頼って、特別のことが無ければ〝異常ありません〟だ。どこか他に原因は無いか・・・と思わんのかね〟

と御立腹だ。そう言われた東京電力はそれならさようならとも言えず、再び電柱高く登って調べていた。だが結果はやはり同じ。そりゃあそうだろう。同じことをやっているのだから・・・。

  〝今日のところ異常は見つかりませんので、又、何かありましたら御連絡下さい〟

と言って帰った。


 白井晟一が書斎に帰られてから、私は天井の大型シーリングライトを見上げていた。白井晟一はヘビースモーカーだったという話は前にもしたが、吸っているのはゲルべゾルテ(ドイツのものか、小田急ハルクにわざわざ買いに行ったことがあるのでよく覚えている)かピー缶こと缶入りのピース、葉巻を吸われていた時期もあるようだから、シーリングライトのガラスグローブが大分汚れている。私は〝ああ、これだな原因は・・・〟と直感し、はずして洗って取り付けし直した。

 しばらくして白井晟一が帰ってきた。

  〝おお、大分明るくなったなぁ〟

  〝原因はシェードの汚れでした〟

  〝あぁ、そうかそうか〟

そう言ったきり、この前の東京電力の人達には悪かったなあでもなく、それで終わりであった。





2023年6月12日月曜日

 コラム325 <白井晟一の想い出 ⑤>        ───書き取りの意味するもの───


 私が研究所に入った時には二年先輩にT君という人がいて(年令は同じだったように思う)白井研究所に入ってから三年目を迎えようとしていた。どういう判断であったのか、私はまもなく茨城キリスト教短大のチャペルを手伝わされた。私は通称「高山アトリエ」と呼ばれている木造の方で仕事をしていたが、T君は白井晟一の自宅付属のアトリエの方に居た。入った当初から小学校の時よく使ったあの大きな枡目の漢字帳に毎日毎日漢字の書き取りをさせられていたようで、本人はさすがに三年目に入ったら仕事の手伝いをさせてもらえるだろう、と期待していたようだ。だが三年目に入ってもあいかわらず漢字の書き取りが続いた。漢字の手本は細明朝、英字はオールドローマンと決まっていた。


 ある日、自宅のリビングで雑談している時、白井晟一はふとこんなことを洩(も)らした。

  〝あいつは何故漢字の書き取りをさせられているのか、さっぱり判っていない!〟

  〝今や本だの雑誌だの、沢山出ている。それをペラペラめくって、気の利いたものを参考にすれば、いっぱしの建築が出来ると思っている。漢字の一文字だって優れたものってのは何百回、何千回書いたって真似(まね)ることができない。真似るってのはそんなに簡単にできることじゃないんだ。それを判らせるためにさせているのに、あいつはさっぱり理解していない!〟

 私も不思議に思っていた。情報時代の走りの様相を呈していたから、私は共感をもってその話を聞いた。この日はその謎が解けた一日だった。

 

 T君は4年目に、イタリアのカルロ・スカルパの元へ旅立った。数年後に帰国してから一度会ったが、白井晟一の指摘した認識は変わらないままのようだった。

 





2023年6月5日月曜日

 コラム324 <白井晟一の想い出 ④>         ───衣食足りて礼節を忘る?───


 衣食に不足している国や民族は世界に沢山ある。一方経済文明が発達し、衣食があり余って大量に廃棄されている国もまた沢山ある。その代表格のひとつが、この日本である。

 食事は残さぬように、米はお百姓さんが八十八回もの手間をかけて育て、やっと我々の食卓に届いているのだから、一粒たりとも無駄にしてはいけない、衣についても我々が小さかった頃には継ぎ接ぎ(つぎはぎ)を当てたものなど全く珍しくはなかった。美しいあの藍染(あいぞめ)木綿布刺子なども、背景には次々と買う訳にはいかない布を丈夫で長持ちするようにと、母親達が夜なべをして手間を惜しまずに作られたものがほとんどだろう。

 今は時代も変わって大量生産・大量消費で、着ないものを山ほど持っている人もめずらしくない。穴があいたり継ぎを当てた服はファッションにすらなり、捨てられる食糧は膨大な量である。以前あの『ヒルトンホテル』から出る食事の年間廃棄量を知って驚いたことがある(確か週当たりトン単位であったと記憶している)。刺子などは、地方の古民芸のひとつとして「民芸館」などに展示されることはあっても日常生活の必要から作ったりする人はもういない。物質文明社会はいずれにしても、大量生産・大量消費・大量廃棄の時代に向かう。それがGDPを押し上げ、また同時並行的に地球規模の問題を抱えることになっている。




 諺に〝衣食足りて礼節を知る〟(『菅子』)があるが、昔はともかく今は逆に〝衣食足りて礼節を忘る〟る時代となった。これも〝過ぎたるは猶(なお)及ばざるが如し〟(『論語』)ということなのだろうか。

 私は師白井晟一に一度きつく諭されたことがある。夏にどなたかが送ってくれた極上の素麺を、私に下さったことがあった。それから一週間程経った頃に

  〝この前の素麺はどうだった?〟

  〝とてもうまかったです・・・〟

  〝君ね、戴きものをしたら、礼のひとつ、感想のひとつ位言うのが礼儀ってものじゃないか、物があり余るほどの時代になったが、そういう礼儀は忘れちゃいかんよ〟

 その頃の私は修行の身故、日々の生活に事欠く程貧乏だった。そんな状況下の私ですらそうなのである。限度を超えては礼節など言っていられないこともあるかもしれないが、衣食が不足していた時代の方が家庭での躾しかり、かえって礼儀・礼節はしっかりしていたのではないか。辛(かろ)うじてそんなことが比較できる時代に生まれ育ったから、余計に思うのである。


 だからということでもないが、住まい塾の本部では誰かから戴き物をした時には必ず誰から戴いたものかかが判るようにシールに書いて貼るようにしている。その上で礼状もしくは葉書、最低限電話なりで礼を欠かないように習慣づけている。誰から戴いたものかも知らず、考えず、感謝の気持もなしにムシャムシャ食べている姿などは美しくないし、言語道断だからである。

 私の場合、こういう面に関しての躾は母が厳しかった。その当時は面倒くさがって反抗したりもしたであろうが、親の躾というものはどこか身に染みているものである。白井晟一の諭しと通底するものがある。

 あの諺は今の時代となっては

  

 〝衣食足りて、礼節を忘れるなかれ!〟


と言い替えねばならないようだ。