2020年9月21日月曜日


 

コラム183 <人生一句 >

 

溜め息や

 蛙(かわず) 飛び込む

          ドブの中





2020年9月14日月曜日


コラム182 <器の扱いについて教えられたこと>

脳出血以来、器がうまく扱えなくなって、改めてこれまで器の扱いについて教えられたことがらを思い出さざるを得なくなった。左手及び指の動きが思うようにいかないので細心の注意を払わないと落としたり、滑らせたり、器どうしぶつけたりして、器を損じることが多くなったからである。器の扱いという面では、自分を自分で躾けてきたようなところがあるだけに余計にくやしいのである。

第一に思い出されるのは、魯山人の教えである。おそらく『星岡茶寮』における従業員達へ心得として説いたものであろうと思われるが、器と器を重ねる際には間に必ず紙を敷き込んでいたという話である。器にキズをつけたり、欠き損じることの防止という意味ばかりでなく、特に陶器類は水分を吸うから高台周辺へのカビ防止にも役立ったことだろう。
この話を聞いて以来、私自身もこれを実生活に取り入れてきた。年々古い時代の貴重な器を使うようになったということもあるが、それだけではない。器を大切に扱うこと、特に長年生きてきた器を大切に扱うことは、器に対する礼儀というものであろう。私にとっては、これが器の扱いへの目ざめと呼んでいいものだった。これによって私の器の扱いは一歩成長した。

思い出したことの第二は、かつて渋谷神谷町にあった料亭『くねん坊』の女将から教えられたことである。この頃にはすでに家庭での躾もままならぬようになって塗りもの(漆器)を金タワシで洗われてなげく鰻屋の亭主がいたり、輪島塗の座卓の上をざらついた食器を擦って卓をキズだらけにされたりする例がめずらしくなくなっていた。自然陶磁器などもよく割る時代になっていたのである。茶道が男のものでなくなり、女性の茶道人口もめっきり減ったことも一因であったかもしれない。くねん坊の女将は〝最近は器をよく欠く時代になったわねえ……〟となげきつつ、〝厨房で洗う際にも器に心を残しながら扱わないのが原因ね。他人と話しながら洗ったり、早く済まそうと気が別のところに行ってしまったような状態で扱ったりするのも一因ね〟と、器に心を残して扱うという意味での「残心」という心得をここで教えられた。以来、私はほとんど器を欠き損じることがなくなったように思う。
食及び食器文化のきわめて高い日本であればこそ、もう一度器の扱いを見直したいものである。


2020年9月7日月曜日


コラム181 <日本三鳴鳥+α> ——— その②

ウグイスは、ホトトギスなどに托卵されることがあり、これも摩訶不思議な自然の摂理のひとつである。ウグイスは全長15cm程だというのに、全長が30cm程にもなるホトトギスの卵を懸命に抱卵して温め、何せ食べるエサの量が違うだろうに生まれたヒナを必死に育てる。生み落とされたウグイスの小さな巣の中で、あふれんばかりの大きさに育ってくるのだから、途中でこれはおかしいなと思いそうなものだけれど、我が子と信じて疑わずにせっせとエサを運んで育てる。巣立つ頃には、ほぼ30cm近くになっているのだから、気味が悪いなどと感じないものだろうかと思うが、このウグイスは余程仏心深い鳥なのだろう。
 〝ホー、ホケキョ!〟と鳴くのは、それとは関係ないことだろうが、托卵する方のカッコウ科のホトトギス類にはよくよく調べると残酷と思われる巧妙な一面があって、私は好きになれない。
 図鑑には繁殖期の雄は「特許許可局」と鳴くと記されているが、私にはそのように聞こえたことが一度もない。先日、その辺に詳しい別荘地の友人に酒を呑みながらたずねてみたら、あれは〝テッペンハゲタカ〟って鳴くんだよ、というから私は〝余計なお世話だ!〟と返して笑い合った。あとで山と渓谷社の野鳥図鑑を調べてみたら、〝テッペンハゲタカ〟でなく〝テッペンカケタカ〟とあった。どちらにしても大してかわりはないか……。
 オオルリに対してはこれまで二度気の毒なことをしている。大きな窓ガラスに当って窓下で死んでいた。私の記録には、2010.5/22012.5/10とある。他の家でも一度見た。透明ガラスに周囲の樹々の姿が映るから、森と思って突っ込んで首の骨を折ってしまうのである。私はあまり詳しくないので、あるいはルリビタキであったかもしれない。以来、当り易い方にアミ戸を持ってきておくか、必要な時以外はケースメントあるいはレースをしておくようにしてからは、こうした事件は起きなくなった。