2020年5月25日月曜日


コラム166 <うらやましい人生>

〝あなたの人生はうらやましい限りだ〟としばしば言われる。仕事は現役なのに一年のほぼ半分を山中で暮らす生活のことだ。決意あって恵まれたが、その決意も不易の要につき動かされてのことだ。当初は年の1/3位から始めたが、段階的に増やして、現在は年の半分を超えている。はじめたのは35才の頃だから、もう35年以上になる。
私には自分の人生に心がけていることがある。少しの余裕をもって生活すること。便利に染まらぬこと。そして何よりも、自分らしく生きることだ。身勝手という意味でのワガママはいけないが、他人には我が儘に生きるすすめ、などと言っている。だが、この我が儘も決意なくしてはやってこない。 
福島の川俣に「扇田食品」という、うまい豆腐屋がある。私が知った頃には高橋虎太郎さんが社長を務めていて、豆腐コンクールで日本一に輝いたこともあった。自分でもしばしば取り寄せ、豆腐好きと聞けばその人にもよく送ったりした。その人達から、また感想と感動の手紙が届く。大会社になら出しはしないが、個人規模のような店になら、豆腐を作っている人達に向けて私の元に届いた感想と感動の手紙を送る。虎太郎さんからは感謝の手紙が届く。その中には、〝朝礼で従業員達に頂いた手紙を読み上げて聞かせました。どんなにか大きな励ましになったか知れません〟と書いてあった。
私の人生に、うらやましい面が多少でもあるとすれば、そんなささやかなことのできる心の余裕を内に残しているという位のものだろう。それも生活のリズムのおかげである。
倒れている人を見かけても、〝どうしたのですか?〟と声もかけずに先を急ぎ、介抱どころではない、といった生活はやはり忙の字そのままに、心を亡ぼしていく生活であると思って間違いないだろう。こんな人が、今、どれ程多いことだろう。
そんな人生が圧倒的多数を占めるようになった日本の都市社会に生きる我々は、人間の価値に重きを置くことを忘れ、足元を流れてゆくスピードに刹那的に対処していくばかりだ。自分がどこに向かって歩いているのかも判らず、あてどなく彷徨い歩いて人生を終える。死の直前にこんなはずではなかった、と気づいてももう遅いのである。徘徊状態は、老人特有のものではなく、いまや日本人及び日本社会全体の問題である。

2020年5月18日月曜日


コラム165 <今は亡き母上へ>


わがまま放題に 育ててくれて ありがとう。

わがまま放題に 育ってしまって ごめんなさい。
  





2020年5月11日月曜日


コラム164 <ステイホーム>


カーテン開けて
ゆれる若葉に    こんにちは

2020年5月4日月曜日


コラム163 <顔を洗うが如く>

私は毎朝夕、聖書を二章ずつ読むことにしている。時には仏典の時もあるが、これを日課として欠かさない。顔を洗うが如く、心も毎日洗う必要があると思うからである。反省とは心を洗い、新しい自分に向かうことだが、なかなか理想通りにはいかない。それでも洗わぬよりは、まだましだろう。
〝あなたはクリスチャンですか?〟と聞かれることがある。
そう問われると、キリスト様に申し訳ない気がするから、〝そうです〟とは言わないことにしている。もしもキリスト教が弾圧を受けたなら、私は隠れキリシタンになるであろうし、仏教が弾圧を受けたなら、私は隠れ仏教徒となるだろう。なんとも不埒(ふらち)な存在だが、ただただ人間になりたいだけである。そのためにも、人間真理の源流に一歩ずつでも近づきたいと念うのである。