コラム395 <医師は何を診るか:『医者ともあろうものが』現代版>
最近の医師は病を見て、人を見ない。
最近の医師はパソコンを見て、人を見ない。
これなど最初の頃は〝おいおい、患者はこっちだよ!〟と言いたくなったものだが、最近はどこでもそうだからもう慣れっこになって、何とも感じなくなった。それでも時々人の話題に登るところをみると、まだ違和感を感じている人は私をはじめ少なくないということなのだろう。
整形外科に行く場合はどこかが痛くて行く場合が多いだろうが、医師は検査をレントゲン・CT・MRIなどの機械にまかせて出てきた画像を見て、人を見ることもなく、身体に触るでもなく、画像に特別問題が無ければ、薬を出して終わりだ。少なくとも私は整形外科で医師に触れられたことが無い。先端医療技術が問題だというのではない。相手は患者という一人一人違った人間なのだということが見逃されているところが問題だと思うのだ。
医療の技術的進歩は誰も疑わないだろう。現代のこのような傾向で失われたものはないのか、と私のようなタイプの人間は疑念を持つ。
私の親しかった名棟梁は足場に胸を打って、ついでに診てもらったら小さなガンが見つかった。まだまだ現役バリバリの棟梁だったが、手術時どこかの神経を切ってしまったらしく、生涯仕事が出来なくなった。その後も月一度の我々の勉強会や見学会には必ずと言っていい程出席し、あれ程好きだった酒も一滴も飲まずに、復帰を念ったがついにその夢はかなわずに亡くなった。医師がこの人が名棟梁だと知っていたら手術のやり方も違っていたかもしれない。失われたものは人間らしさ、人間っぽさ、人間を観る眼だ。
昔懐かしく思われる胸やお腹に手を当てて甲をトントンやるあれは何だったのか。聴診器を首から下げているお医者さんに出会うと未だにホッとする。当ててくれたりすると私の身体を看てくれているようでうれしい気分になる。患者の目や顔の色艶、表情から読み取れるものはないのか。そうしたものに、病は表れないものだろうか?
いかに高度な検査機械の時代となっても、生前何度かお会いしたことのある見川鯛山先生のような町医者は、もう出番がないのだろうか。時々はああいう人間っぽいお医者さんにいて欲しいものだと思われる。
そもそも患者を看るの「看」という字は手と目で成り立っているではないか。そんなことは気のせいだ、と言う人がいるかもしれない。しかし、私のように体が不自由になった身にはこの「気」こそが殊の外大切なのだ。
人間はいずれ必ず死を迎えることを考えれば、人間的な医師の元で、人間的な医療を受けて死期を迎えたいものだと思う。それが今回のタイトルを『医者ともあろうものが』現代版とした理由である。