2019年10月7日月曜日


コラム 133  名言・名句辞典 > 

退院したら古今東西の偉人・賢人達が、例えば「人生」についてあるいは「死」について、あるいは「病」や「老い」についてどのような言葉を書き遺してきたものかを『名言・名句辞典』などを通じて読み通してみたいものだとベッドの上で思っていた。たった一人の、たった一つの病のためにこれ程多くの人々に迷惑と世話をかけていていいものかと思われて、そんなせつない気持ちがそんなことを思わせたのである。退院後最初に手にしたのが『名言名句の辞典』(小学館)である。
しかしながら、言葉というものは前後の文脈から抜き出して集められてみても、生命の源たる根から切り離されて萎(しお)れた花のようなものとなって、心打つ言葉に出会うことはなかった。早々に、これは自分の足でさがし求め、一人旅の途中で偶然に出会うしかないものだと知った。膨大な資料の中から、他人の集めたものをかいつまんで、効率よく味わおうなんて根性は所詮虫のいい話だ。そんな安直な理解を自然は許さないということなのだろう。
やはり著者が心を込めて書いたものは一冊一冊心を込めて味わわなければ、胸を打つ真理の言葉には出合わぬものだ。苦労を共にして生きなければ、脳みその一部をちょいと刺激する程度に過ぎず、決して魂の糧にはならぬものだと再認識させられた。

読みたい本は山程ある。この生涯中にどうしても読んでおきたい本もある。それを取り出そうとするが、この脚では地階や中二階の書庫まで登り下りできない。悲しくも哀れなものだ。だがひとつだけできることがある。それはインスピレーションを書き記すことだ。イメージをスケッチすることもできるようになった。右手が動くのが幸いだった。
それでも長時間根をつめることができない。できるが、そのあとぐったりする。複雑な回路の神経が疲れるのだろう。皆に教えられたように焦らず、へこたれずに行こうと思う。

2019年9月30日月曜日


コラム 132  その人の身になることのむずかしさ > 

こんな時でもなければ真剣に読むこともあるまいと、最初病室に持ってきてもらったのが正岡子規の『病牀六尺』他二冊の病床日誌であった。
生きる上で身近な人々に大変な世話をかけながら、何を我が儘なことを言っているのか・・・・・と思わせられる場面が時々登場する。しかし病に臥した人間からすれば多かれ少なかれ、もう少し気を使ってくれ!とか、もっと患者の身になってくれよ!などと思われる場面にどうしても出くわすことになる。私のこの9ヶ月間に亘る入院生活中にもお世話になっている方々に頭の下がる思いをしながらも、そういう場面に時に遭遇した。そのたびにその人の身になることのむずかしさを思わせられた。
これは看護士や介護士にあっても同様で、何か専門家とか素人の差というよりもひとえに人間的な気遣い、気転、優しさといった面が総合された差であろうと思われた。専門家だって気のきかぬ人は気がきかぬのである。
ベッドシーツの交換の度に身体の不自由な患者にとっては命綱ともいうべきナースコールのコードがブラケット(壁付照明)に巻き上げられていてベッドに戻って横たわった時にはナースコールに手が届かないとか、私の場合車椅子の生活からしばらく離れられなかったのだが、部屋の掃除の後など、車椅子の置いてある位置がベッドから遠過ぎたり、向きが逆になっていたりして〝車椅子まで歩いて行けってえのか!〟などと思わせられたこともたびたびである。おまけにナースコールは手が届かないのだから無理にベッドの柵を伝いながら歩こうとして転倒したこともある。
長い入院生活だったから、さまざまな場面を経験したが、その中で感じたのは特に健康体の人が身体の不自由な人の身になって気配りするむずかしさである。つい最近まで私もその健康体の一人であったのである。多くのことを教えられた。
やさしい表情や細やかな気遣いの根底にあるのは何といっても人間としての心根の優しさである。
気配りのない冷たそうな看護士が夜勤担当だったりすると少々気が重くなったものだった。逆にやさしい人が担当だったりすると安心できた。
病に臥している者はその辺に敏感になり、やさしそうな人とやさしい人を直感的に見抜くようになる。特に急性期病院は皆忙し過ぎるせいなのだろう、そのあとのリハビリテーション病院よりはるかに感情のピリピリ感、ザラザラ感、バタバタ感が強い。致し方ないのだろう。
そのあと松戸リハビリテーション病院で4ヶ月、信州上田の鹿教湯病院で3ヶ月リハビリ生活を続けたが、この二つの病院では不快な思いをしたことが一度もない。この辺が急性期とリハビリ病院の一番大きな違いだろう。退院時には主な関係者が集まってくれ、握手をしながら皆涙ぐんだ程だ。特に鹿教湯病院は山中にあったから余計にそう思われるのかもしれないが、私にとって想い出深い第二の故郷になるだろう。

2019年9月23日月曜日


コラム 131  食について/普通であることの大いなる惠み > 

私はすでに72才になった。中には豪傑もいて、70才を過ぎても酒豪・大食漢という人もいる。私はその辺まあ普通で、うまいものをもりもり食べたい、うまい酒をぐいぐい飲みたいという年令を疾うに越えている。脳出血を起こして左半身の自由がきかなくなってからというもの、余計にそうなった。
それだからこそというべきか、少量を、器から配膳に至るまで〝美しく食べたい〟という思いが以前よりさらに強くなった。幸いなことに伴侶が美的センスに恵まれているから救われているが、一方残念なことに、こちらの左手の自由がきかないから美しい食べ方ができない。極力左手を参加させるように努め、朝食後の食器洗いなどはリハビリを兼ねてできる範囲で自らやっているが、手や指が細やかに動くなどということは奇跡的な惠みであることを教えられている。普通であることすべてが大いなる恵みであることを知らされただけでも、健康そのもので歩んできたかのような私にはこの世に生まれ出た人生の甲斐があったと考えなければなるまい。苦しんでいる人が身近にこれ程多くいることにも気付かされた。

2019年9月16日月曜日


コラム 130  久々のブログ再開 > 

私のブログ『―信州八ヶ岳―山中日誌』は129回で途絶えた。20182月に脳出血で倒れて左半身マヒとなり、続けることができなくなったからである。あれから約一年半余り、数え切れない程多くの人たちに支えられながらリハビリに努めてきた。
寝返りもうてず自分の左腕がどこにあるかも判らないような当初の状態よりは格段によくなっているが、御世話になった方々への御恩返しが何百分の一でもできる程度までには回復したいという自分の思いに比すれば恢復の程度は捗々しくない。右手が動くのだから字や文章位書けそうなものだが脳の病はそう単純ではない。

私のやられた部位は視床というところだが、それがどの辺にあるのか私は知らない。が、どうも色々なところへの運動神経の通過点になっているようで、それ故左半身の各所に影響が及ぶことになった。幸い予想された言語への障害は、自分にはもつれる感があるが、他人にはそれ程には聞こえないらしく、言語のリハビリも早々に卒業となった。今回初めて知ったのであるが、舌の神経も中心から左・右に分かれているとのことで、左側にマヒ状態が残った。それと関連しているのか口の中全体が軽く火傷を負ったような感触となり、口腔外科では「舌痛症(ぜっつうしょう)」と診断された。病名はあるが原因がはっきりしていないとのことで治療法もこれといって無し。神経から来ているのだろうと言われているとのことであるから今回の病と関連していることは確かなようだ。それ故熱いものは自然に遠ざけることとなり、自ずと味覚にも影響が及ぶこととなった。それでもうまいものはうまいし、まずいものはまずいと判別がつく程度に留まっているから・・・・・まあ いいか。
今最も強く残っている後遺症は左半身、特に肩から腕・指先までのジンジンする強烈なシビレである。それが左脚にも影響を与えている。薬とリハビリによって少しずつでも快方に向かえばいいのだが、こればかりは逆に段階的に強くなって時々気が折れそうになる。強い日は気力と体力がこのシビレに吸い取られていくような気分になる。そしてひどく疲れる。こういう状態ではインスピレーションとエネルギーの集中を要する文章などはなかなか書けないものだ。シビレの専門医にも幾人か診て戴いたが、結果は同じであった。〝シビレとはつき合っていくしかありませんねえ。そう覚悟して下さい〟・・・・・覚悟しろと言われてもねえ・・・・・。
 志木に帰って最初に行った病院が「いしもと脳神経外科」。退院後二ヶ月程してのことである。いしもと先生曰く。
〝お酒は飲んでないでしょうねえ〟
〝いや、退院の日からやってますよ〟
〝ダメじゃないですか、退院の時に医師から言われませんでしたか?発症から1年はダメだって〟
〝いや、一度も言われたことないなあ・・・・・〟
〝どうしてかなあ・・・・・〟と私の顔をまじまじと眺めながらポツリ・・・・・
〝言ってもムダだ、と思ったのかな?・・・・・〟
そういえば、リハビリ入院していた鹿教湯病院の主治医の先生は人間的で心の広いすばらしい方だった。
〝1年といえばもうすぐじゃないですか〟の私の言葉に
〝見切り発車したんだから秋位までは控え目にしましょうね〟
だから今は控え目だ。

発症後半年以後はリハビリの効果は上がらない、というのが定説になっているようだが、多くの体験者が語るところによれば、それは違う。脚に装具をつけながらのことだが、私も500メートル、1000メートルと歩けるようになったのは半年過ぎてからである。
リハビリのセラピスト達のおかげで歩行や手の動きなど少しずつ回復しているが諦めずに今できることに少しずつ挑戦してやがてブログが続けられていた時のように自然が与えてくれる無限のインスピレーションに充たされながら文を書き続けたいと望んでいる。
美しいものが沢山あるというのに写真も今は自分の手で撮れないのが無念だ。レンズに納めたい感動的な草花や自然界の光景に出会うと、思うように動かない身体がもどかしい。
焦らないように、苛立たないように、一歩ずつ、半歩ずつ、薄皮を一枚一枚はぐような気持で・・・・・と多くの人に教えられ、諭された。

今後しばらくは病床日誌のような形で患者としてあるいは病室で思い感じたことなどを書き記していこうと思う。

2018年2月19日月曜日

コラム 129  空の色の不思議 >  


このところ快晴の日が続いて、空は爽快な青、夕方ともなれば西の空が橙色から徐々にブルーとピンクのパステルカラーの層へと変化し、やがて静かに日が暮れてゆく。
山小屋の西の窓から眺めるこうした光景は、私に深遠な感情を抱かせる。 


晴れた日に空が青いのは当り前、夕焼だってだいたい橙色に決まっている。太陽が山の向こうに沈み切って黒い峰々の背景がパステルカラーになるのもごく当り前、特別驚くようなことではない、と多くの人が思っている。
だが、快晴だとどうして空は青いのか?
陽が沈むと西の空はなぜあれ程に輝くのか?
今日のことだから、その理由を科学的に説明することは出来るに違いない。しかし、なぜ?なぜ?なぜ?と繰り返して第一原因にまで近づくと、なぜ宇宙にそんな原理が存在するのかとなって、説明が困難になってしまう。そこに私はことの不思議を感じ、深遠な思いにかられるのである。 

雪は白いとばかり思っているが、そうと決まったものでもない。もしも雪が白ではなく、真っ赤だったり、真っ青だったりしたら、どうなるだろう・・・・・。透明な雨が結晶化して雪になれば白くなるのは当り前だ(と思っている)が、そもそもなぜ雨は透明なのか?血のような赤であっても何ら不思議はないし、青いペンキを溶かしたようなものであってもいいし、墨のような黒色であってもおかしくはない。これまでにも黒い雨というものが実際あったのだし・・・・・。 

こんなことを想像していると、この世界は実に美しい原理のもとにある、と思われてくる。宇宙は、地球はきっとこの原理のもとにある・・・・・してみれば我々の心の原理もそれに違わぬものであるに違いない――刻々と変わるこの夕空を眺めているとそのように思われてくる。

2018年2月12日月曜日

コラム 128  人の道 その⑥ ―あるべきように― >  

あるべきことを あるべきように
やるべきことを やるべきように
それが 人としての道 

言葉で表現すれば、何と簡単なことだろう
判っていることを実践することが、なぜこんなにもむずかしいのだろう。

2018年2月5日月曜日

コラム 127  氷柱(つらら) > ――屋根断熱が失わしめた厳冬の美―― 

つららの先から
雫が落ちる
一瞬キラリと光って
ポタリと落ちた。
つららとの別れを
惜しむかのように・・・・・
はかなき無言の別れ。 

















一時間程経って
ふと見ると
つららの長さが数センチ
短くなっている。
そうか、あれはつららの分身
つららの涙だったのだ。
うららかな陽気に
つららの心もゆるんだのだ。 

夜半には再び厳しい寒気がやってくる
涙をためて、たくましく育つために