2024年7月22日月曜日

 コラム383 <束の間の太陽> 


 梅雨の日々。束の間、太陽が樹間から差し込んできた。久々に日光浴を、とデッキにキャンバス地の椅子を置き、エサ台にエサを入れてからしばらく日向(ひなた)ぼっこをした。

 エサ台に間もなくキジバトがやってきた。少し離れたところからウグイスの声が聞こえてくる。トーンの高いのと低いのの二羽。

 ウグイスが鳴く度に私はまねをする。


  〝ホ―ッ、ホケキョ‼〟


都会のウグイスと違ってこの辺のウグイスの声はいたってつややかだ。都会のウグイスは暑さや光化学スモッグやらで喉(のど)がいがらっぽくなっているのだろう。


  〝ほーっ、ほけきょう!〟


 私のまねは都会のウグイスどころではない。鳴く度にまねるが、舌も声帯も多少マヒしているから、どうもうまくまねられない。


     〝ホ―ッ、ホケキョ‼〟

     〝ほーっ、ほけきょう〟(キレガ悪い)

     〝ホ―ッ、ホケキョ‼〟

     〝ほーっ、ほけきょう〟(これじゃ法華経の読経じゃないか!)


 エサ台の上でしばしついばむのを止めて、こっちをじーっと眺めていたキジバト君の表情は

     

〝あなた うまくないねぇ〟


と言っているようだった。首をかしげながらの目がそう語っていた。

 スミマセン、もっと練習しておきますから・・・。(7月3日記す)









2024年7月15日月曜日

 コラム382 <今春最大のショック 続き> 


 急須を持たない世代となって久しいことは知っている。客間の和室の座卓に、ペットボトルを、それも茶杔にのせてうやうやしく出されたこともあった。定年退職後のご夫妻であったから決して若者ではなかった。この時も〝ハァ~すでにこんな時代になっているんだ!〟と驚きを禁じ得なかった。

 翌々日見えたもう一人のヘルパーさんにも上記の話を交えながらソバチョコ・ソメツケの話をした。〝いやぁ、ボクも知りません・・・〟これ以上話し続けると私はショック死しそうだったから、この話はこの日で止めた。


 これでは手工芸品の店や、骨董・古美術屋さんが全く売れないと悲鳴を上げるのも当然だ。手工芸家を育てようとがんばってきた東京の老舗『瑞玉(すいぎょく)』の女性オーナーがかつて溜息まじりに言っていたのを想い出した。〝これから工芸家たちはどうやって生きていくんでしょう・・・〟


 これは30代の若者であったが、新茶を戴いたので持っていくか?と聞いたら、いやいやいいです、と言う。

 

 〝お茶好きじゃないの?〟

 〝いや、急須ないですから・・・〟

 〝お茶飲まないの?〟

 〝いつもペットボトルですよ。私の世代で急須持っているやつなんてめったにいないと思いますよ〟


緑茶もウーロン茶もペットボトル茶が本来の味だと思われたら茶葉そのものも気の毒なら、うまい茶葉を育てようと頑張っている生産者も気の毒というものだ。これを万事急須という。

 TVコマーシャルに惑わされずに、うまい茶をしっかり入れて、気に入った器でちゃんと飲もうよ。日本人なんだから・・・。








2024年7月8日月曜日

 コラム381 <今春最大のショック> 

 

  多くの人の支えと助けを受けながら、日々の生活が何とかできている。感謝することばかりだが、自分がお返しできないだけにこれもまた辛いことだ。  日曜日を除く毎夕、四人のヘルパーさんが交代で食事をつくりに来てくれる。以下4月のある日のヘルパーさんとの会話である。

 〝牛乳飲みたいんだけど・・・〟

 〝器はどれにしましょうか?〟

 〝私の食器が並んでいる棚に大きめのソバチョコがあるでしょう?〟

 〝・・・ソバチョコって何ですか?〟

 〝蕎麦猪口(ソバチョコ)知らないの?

  長く日本人でいながら蕎麦は随分食べているはずなのに・・・。

  盛り蕎麦を食べる時に使うつけ汁の入れもの・・・。

  そこに磁器の染め付けの器があるでしょ〟

 〝染め付けって何ですか?〟


 10代か20代の若者ならともかく、40~50代のヘルパーさんだから驚いたのである。知らなくて当然といったような平然とした表情をしているから、おそらく世界で最も豊かな食器文化を持っている日本でも事態はこんなところにまで来ているのか!と思われて一層ショックだったのである。陶器と磁器の違い、白磁に染め付けとはこういうものだ、と不自由な身体を台所に運んで「講義」を始めた。この話を翌日見えた別のヘルパーさんに話したら、


 ”ソバチョコって何ですか?私も知らない〟


これには私も腰を抜かしそうになった。それまでの腰痛がさらにひどくなった。





2024年7月1日月曜日

 コラム380 <人間とは> 


 〝人間とは理性の動物である、と云うが正しくは人間は歴(れっき)とした感情の動物である。

  他の動物との違いは、その感情を理性によってコントロールできるか否かにある〟


 たしか『人間とは何か』といった類のタイトルの本に書いてあったことである。合点して読んだ記憶がある。逆に云えば理性によって感情をコントロールできない人間はより動物に近いと言うことができる。


 岸田首相の国会答弁や海外での会見などを聞いていて気がついたことがある。いつ聞いても話がなぜ胸に迫らないのか、心を打たないのかの謎が解けた。それは理性が勝ち過ぎて感情に抑揚が無いせいだ・・・と。淡々とした受け身一方では理性的とは言われても、聞いていて心動かされるものなく、さっぱりおもしろくない。


  怒るべき時にはもっと怒れ!

  うれしい時にはもっとうれしがれ!

  哀しい時にはもっと哀しめ!


くだらない質問にはバカヤロ~ッ!のひとつも言ってやれ!と思って私はいつも聞いているが、パッション不足なんだな。それを理性的と勘違いしている。


 瀬戸内寂聴さんの日めくりカレンダーの一日には、こうある。


 〝笑顔はその人にとって一番輝いている素敵な顔です。

  幸せは笑顔に寄ってきます〟


 一面の真理だとは思うが、しかしケラケラ・ゲラゲラのバカ笑い、ヘラヘラ・ニタニタ・ニタッのうすら笑いはこの笑顔の範疇に入らない。







2024年6月24日月曜日

 コラム379 <安達原玄さんと達磨像>


 仏画師 安達原玄さん(と言っても女性である)が晩年


  〝最近達磨像を描いているんだけど、

   描けば描くほど高橋さんに似てくるのよねえ・・・

   どうしてかしら・・・〟


とおっしゃったことがあった。あれから10年以上経った今、やっとあの意味が判るようになった。脳出血で倒れて以来6年間で、ざっと数えて30回は転倒している。

 頭からの流血5回、まゆ、耳から各1回、それでもその度にほぼ自力で起き上がっている(一度だけ助けてもらった)。七転び八起きどころではない。30転び31起き。ハハァ・・・あれはこの予言だったのだ、と。


 あの時二枚の原画を下さった。達磨とは南インドの王子として生まれ、後に中国に渡って中国禅宗の祖となった御坊さんだから、厳しい表情をしている。りっぱな髭(ひげ)をたくわえているが、頭には毛が殆ど無い。

 私は聞いた。


  〝どこが似てるんですか・・・⁉〟


そことは言わせぬ迫力で私が聞いたからだが、うっすらと笑いを浮かべながら、どうもそれだけではないと言いたげだった。

 写真が撮れないので残念だが、今も私の製図板の机前の壁にかけられている。最晩年の10年間程の想い出深い交流であった。玄さんは長い間パーキンソン病と闘いながら2015年3月9日、86才で亡くなられた。

(写真は後日連れ合いが撮ってくれた。)

 





2024年6月17日月曜日

 コラム378 <新緑の中のキジバト君> 


 朝陽に照らされて、梢の影が障子に揺れる。自室の明り障子を開けたら萌黄色に輝く若葉がなんとさわやかで美しいことか。


 
 そこにキジバトが飛んできた。

 私はベッドに腰掛けトレーニングをしながら


  〝オハヨウ!ハーちゃん!〟


キジバト君は梢(こずえ)の上でスクワットしながら


  〝ホゥ、ホゥ、ホゥ、ホゥッ〟

  〝私と一緒にトレーニングしてるのかい?〟

  〝ホゥ、ホゥ、ホゥ、ホゥ〟

 

春の爽やかな風と共にいると


  〝よくがんばってますね〟


と云われているような気分になって、私は


  〝ハト君、ありがとう!

   ところで今日は相棒はどうしたんだい?〟


と言った。






2024年6月10日月曜日

 コラム377 <天道虫(てんとうむし)が指し示した本 その②> 


 もう一つは私も知らないことであったし、歴史の授業の中でも聞いたことのない事実であった。これも同本からの転記である。


  〝第二次世界大戦を終結したサンフランシスコ対日講和会議(1951)で、

   仏教国セイロン(現在のスリランカ)は、

   日本に対する損害賠償請求権がありました。

   ところがセイロンを代表したJ・R・ジャヤワルダナ蔵相

   (後にスリランカ大統領(1906~1996))は、

自発的にそれを放棄しました。

   その理由として引用したのが初期仏典『ダンマパダ』の次の言葉です〟


  〝実にこの世においては、怨(うら)みは怨みによって消えることは、ついにない。

   怨みは、怨みを捨てることによってこそ消える。これは普遍的真理である〟


 試験のために暗記勉強だけに終始した感のある社会科歴史に、私は30才近くになるまで興味を持つことがなかった。歴史の裏側に込められた人間模様を知ったなら私の歴史への興味はもっともっと深まっていたに違いない、と今更ながらに思う。