2022年12月5日月曜日

 コラム298 <コロナワクチンの副反応についての報告②> 


 先日電話で話した友人は、親は一度も打っていないのに大丈夫で、打った娘が感染したと言って笑っていた。考えてみればこの年になるまでただの一度もインフルエンザワクチンさえ打ったことが無いのに、入院となっていきなりインフルエンザワクチン1回と、新型コロナワクチン3回をたて続けに打ったのだから、私の身体はびっくり仰天(ぎょうてん)したのだろう。だがこの副反応は一向に抜けない。

 

 福島市の医療法人『八子(やご)クリニック』(024-533-1215)ではホームページで〝4回目のコロナワクチン接種には命の危険がありますので絶対に止めてください〟と訴えている。訴えだけでなく、予防接種のデータも添えられている。

 コロナワクチンのオミクロン株への予防効果に関してカナダのデータを紹介している。2022年3/21~4/10までのカナダ全土における感染、入院、死亡に対するコロナワクチンの有効性をグラフで示している。

 これによると

  「今回のワクチンには感染予防、重症化予防、

   死亡予防効果は全くないどころか、

   逆に接種が悪影響を与えていることが

   わかります。」

とある。異なるデータもあるのだろうが、第1回接種直後から苦しみ続けている私は危険であることの訴えに共感する。特に脳卒中の後遺症、神経マヒに苦しんでいる人や筋萎縮症などの人には直感的に厳重な注意が必要だと思う。パーキンソン病の人なども注意が必要なのではないか。ワクチン接種前まではリハビリでかなり回復していたのに、接種後は急激にガク、ガクッ、ガクンといった感じで副作用が出た。筋肉のひきつれとそれに伴う筋肉の硬直(筋肉と関節の痛み、あちこちでこむら返しが終日続いているような痛みを越えた苦しみ)に眠れない夜もしばしばだから、慢性寝不足状態が続いている。体内に何か異変が生じたのだ。




2022年11月28日月曜日

コラム297 <コロナワクチンの副反応についての報告①> 


 私は2018年2月に、視床部という少々厄介な部分で脳出血を起こした。あれからもう5年が過ぎた。

 自主トレを含めリハビリに努めてきたつもりだが、後遺症が左半身マヒばかりでなく強烈なシビレから痛み~苦しみへと発展し、悩まされ続けてきた。このシビレとは数値化出来ないから、自覚症状によって1から5までの5段階で評価され、看護師さんから〝今日はどれ位ですか?〟としばしば尋ねられる。最初の頃は4とか4.5とかとか言っていたが、最近では7とか8と答える日が多くなった。因みに5段階の最高5は耐えられない辛さということなのか、涙を流している絵が添えられている。

 

 西洋医学、漢方、鍼灸、マッサージ、気功、波動と色々取り組んできたが、恢復(かいふく)は捗々(はかばか)しくない。リハビリのおかげでいいところまで回復し、一本杖でだいぶスムーズに歩けるようになったところに、コロナ騒ぎだ。ワクチンは国のすすめに従って、第1回目、第2回目共にファイザー社製のワクチンを接種。結果、左マヒ側の筋肉がひきつれ、硬直して、一段とマヒ状態がひどくなり、1年以上経った現在も一向に引かず、それどころか益々ひきつれがひどくなっていく。その副反応に苦しんでいる中、第3回目(モデルナ社製)を打ったものだから、注射を打って3時間後にはもう歩けなくなった。私には明らかにワクチン接種は禍した。

 1回目、2回目がそのようだったから第3回目は打たないと決めていたのだが、2022年3月初旬に二か月余りの冬期リハビリ入院を終えて退院する時点では埼玉県の緊急事態宣言がまだ解除されていなかったこともあって、埼玉県志木市の仕事場に帰るのであれば3回目のワクチンを打って行った方がいいのではないか、との主治医のすすめもあって、私の決心が揺らぎ、結局3回目を接種したのである。

 これが一段と強烈な副反応を示し、同じく左半身の指先まで含む腕、肩、脚、背中の筋肉が終日ひきつり、硬直して、未だそれに苦しんでいる。そんなことに気を揉(も)まず毎日の自主トレーニングに努め、治療も続けているが、後遺症が進行こそすれ、恢復は捗々しくない。



 最近になって嘘か本当か知らないが、ファイザー社の社長も家族も打っていないとか、アメリカで医師をしている私のハトコも自分は決してしない、と言っているだとか、色々情報が届くようになってきた。しかし遅きに失した感のある我々にはこれといった手立てが無い。打つも打たぬも個人の自由だから自分が打つと決めて打ったのだから致し方ない、と思うしかない。国の方針のせいになどせずに、自分が賢くなるしかないのだ。




2022年11月21日月曜日

 コラム296 <人が生きる、とは何か③> 

 一週間ぶりの〈老健〉退所(出所と言って怒られた)の日に、〝来月も一週間程お世話になる予定・・・と、ここまで言ってから、ふと、こっちの命だって来月まであると決まっている訳でなし、あくまで予定だな・・・と思われて、〝あくまで予定〟を二度繰り返した。

 〝御世話になりました・・・〟と所員達に礼を言い、続いて上記のことを言ったのである。

 彼らは冗談とばかり思ったらしく、〝いやいやいや・・・〟と笑っていたが、言ったこっちの方は、いや待てよ、冗談なんかじゃなくて、命はいつでも予定なんだ、と気付かされて、改めてキリリと礼を言った。


 山中で長い間最も親しく交流していた二人が、其れ其れ昨年の12月と今春の3月にすでに亡くなっていた。急なことであった。一人は葛飾柴又生まれで、松戸リハビリテーション病院に入院中は団子を持って毎月見舞ってくれた。もう一人は日本の歴史に詳しく、彼の話を聞くのが私の楽しみのひとつでもあった。今夏も元気に会う予定であったのに、命とは常にこのようなものである。

  


              


 

2022年11月14日月曜日

 コラム295 <人が生きる、とは何か②>


 過日〈老健〉という施設に一週間程お世話になった。先月に続いて二回目である。ここで99才になるという小平定夫さんと出会って、幾度か話す機会に恵まれた。特攻隊員であったが、出陣前に終戦を迎えたらしい。

 小平さんは言う。〝ここに居ると、特に困ることはないけれど、話し相手がいなくてねぇ・・・日本語を忘れそうになる・・・〟


 アララギ派の歌人が多く集まった八ヶ岳山麓の富士見町の出身だという。歌碑も多い。その中で伊藤左千夫(1864~1913)の歌を、確か上諏訪出身であったと思うが同じく歌人の島木赤彦(1876~1926)の筆により、石碑に刻まれた歌について熱く語るのだった。余程胸に沁(し)みた歌だったようで、すっかり諳(そら)んじておられた。詳しくない私は、その歌を書いて戴いた。


  寂志左乃(さびしさの)

  極尓堪写天地丹(きわみにうつるあめつちに)

  寄寸留命乎(よするいのちを)

  都久都九止(つくづくと)

  思布(おもふ)


 万葉仮名で、しっかりとした字であった。(振り仮名は小平さんに確認しながら私が書いたものだから、多少違っているかもしれない。)そしてこう呟(つぶや)いた。〝伊藤左千夫晩年の作だとしてもまだ50才にもならない頃に詠んだ歌ですよ。今の40代でこんな歌が詠めますかねえ・・・。〟

 

 
 人が生きるとは学び続けること、それが直接成長に結びつかなくとも、これ以上先へ行くのはもう無理だ、というところまで歩み続けること。身体だけでなく、心においても・・・。

 ベッドに腰掛けながら、一人でしばしば本を読んでいたり、忘れかけた漢字を、いつも持ち歩いているポケットノートにカタカナで書き記しておいて、部屋に戻っては調べたりしている小平さんを見ていて、そう思った。語り、心動く時の小平さんの表情は輝いた。

 これが人間にしか為し得ない〝人が生きるということ〟なのではないか・・・そんな風に思うようになった。



2022年11月7日月曜日

 コラム294 <人が生きる、とは何か①> 


 トルストイの民話集『人はなんで生きるか』(岩波文庫)を読んだ。1932年9月25日の発行以来2021年10月25日付で104刷を重ねているから、多くの人に読まれているのだろう。〝人はなんで生きるか〟の前に〝人が生きるとは何か〟との問いが心の中に生まれた。

 これまでそんなテーマでさまざまな本を読んできた。さまざまな場所で、さまざまな人に出会い、かつ現在脳出血の後遺症と向き合わざるを得なくなって、改めて考えさせられているのである。

   〝人が生きるって、どういうこと?〟






2022年10月31日月曜日

 コラム293 <本好きについて>

 読みたい本は山程ある。 

 しかし読める本には限りがある。

 読みたい本を心の趣(おもむ)くままに買い求めていると、あふれんばかりの量になる。

 それが今の私の結果である。


 だが、身体が不自由となっては、半地下の書庫にも、中二階のロフトにも取りに行けない。

 よく、読めるだけ買えばいいじゃないか、と言う人がいるがそんな理性的な考えどうりにはいかない。特にエネルギ―がある時には、古美術・骨董などに魅かれていくのに似て、そんな整然とした合理的理性などどこかにけし飛んで、情熱の方がはるかに勝(まさ)ってしまうのである。


 書物は量読めばいいというものでは決してない。それよりも価値ある本を、間を置いて幾度も読み返してみる方がどれ程身に沁みて益になるかしれない。

 そうは判っているが、私の書斎は本であふれ返った。〝どうにも止まらない~♪〟という歌が流行したことがあったが、あれである。「向学心」と云えば聞こえはいいが、それよりも「向読心」の為せることと思って諦めるしかない。単なる本好きじゃないか、と言われても致し方ない。本好きとはそういうものである。




 読み切れない本を前に、それを眺めながら出版界に多少の貢献が出来たか、と自らを慰めている。

 しかしそんな中から、今読みたい本を探して集中的に読む、というのも買ってすぐ読むのとは違ってちょっといい気分のものだ。本が書棚で熟成する訳はないが、こちらの人間が多少熟成して、年月を経たブランデーを飲む気分になるからである。


2022年10月24日月曜日

 コラム292 <自分の本分を全うする努力こそ・・・>


 一を言われて一を為す者───これを指示待ち人間と云う。初期のロボットの如き人間なり。

 一を言われて二、三を為す者───これを一流に向かう人間と云う。知らず知らずのうちに成長するからである。

 一を言われて二、三はおろか一をも為さぬ者───これを、打てど響かぬ鐘の如き人間なりと云う。やがて打ち捨てられてしまうであろうからである。

 

 言われずとも自ら為す者───これを一流という。真に成長するからである。

 言われてはじめて為す者───これを二流という。なかなか身につかぬからである。

 幾度言われても為さぬ者───これを三流という。流されてゆくだけだからである。


 この類のことはこれまでさまざまな場面で言われてきた。しかし人はさまざま。一流ばかりともいかず、三流ばかりともいかない。野に咲く花の如く、自らの本分を全(まっと)うしてみんな力を合わせてこそ、一人一人が理想社会の礎(いしずえ)になる、と考える方が自然である。しかし自分らしく咲くためには不断の努力がいる。不断の努力を怠りながら自分らしくありたい、とだけ望んでいるのは、虫が良すぎるというものである。