2019年12月30日月曜日



コラム145<一番のなぐさめ ②>

前コラムにも書いたジルボルト・テイラーは同著にこんなことも書いている。
〝病院の一番の責務は患者のエネルギーを吸い取らないことだとこの朝、教えられました。
この若い女性(病歴を調べるために朝早く、突然ばたばたと入ってきた医学生)は、まるでエネルギーの吸血鬼です。〟
〝その人の身になって情を通わすことが、いかにむずかしく、また安心につながるかも学びました。〟

ここまで読んで、私を担当してくれた2つの病院の二人の療法士のことを想い出しました。そして良い療法士とは本人にやる気を起こさせる療法士のことだと思いました。
前の病院で、ある日、迎えに来るまでの少しの間、車椅子から立ち上がって足に装具をつけ、杖をついて部屋の中を歩いていたら
〝誰が一人で歩いていいって言いましたか !!
とけんまくに近い言い方で怒られました。こちらはリハビリ前のウォーミングアップのようなつもりでしたが療法士さんにとっては万一転倒でもして、けがでもしたらどうするのですか!といった心境だったに違いなかったのですが、言い方を少しかえていたらその後はだいぶ違った関係になっていただろうと思います。
最後の病院の療法士さんは少しの危険は省みず、チャレンジ精神旺盛で、かつ ほめ上手でした。
〝いいね、いいね。でもくれぐれも注意深くね……〟
階段の登り降り練習でも最初は右・左とイチ・ニ、イチ・ニ、と一段ずつ確実に上っている最中に、こちらが面倒になって、右・左・右・左とイチ・ニ・サン・シーと片足一段ずつ登り始めたら
〝おぉ スゴイ、スゴイ!いいねぇ!〟
 こんな風にして一階から四階まで登ったことがありました。
勿論パーフェクトにはできませんでしたが、こんな具合に言われると、こちらもチャレンジ精神が湧くというか、元気をもらうのです。
〝こっちが勝手なことをするのですから転んでケガなどしても 絶対、病院の責任になどしませんから……〟 〝転ぶのも経験のうち!〟と宣言しておきました。
 安全を第一に考え過ぎる病院と、すこしチャレンジしていかないと、と考える療法士の在り方のバランスにはむずかしい面がありますが、私はチャレンジをして多少のケガをしたらこちらの責任とはっきり言ってやらせてもらいました。脇で見ていてそれはまだ無理ということはさせてくれませんし、こちらもする気がしないものです。いい療法士さんはちゃんと人を見ているのです。



 私の何よりも幸福だったことは心優しき人々に恵まれていたことでした。病に伏した時に特にこのことを感じるのであって、日常健康状態では悲しいかな、このことを我々は感じにくくなるのです。実はこれ以上貴いものはないというのに……。
 みんな、みんな、ありがとう!!
 病によって新しい人々とのつながりも増えました。
 ジルボルト・テイラーの文中のことばを最後に添えてしばらく続けた病牀日誌を終わりにします。

〝優しい思いやりこそ、お金で買えないものの筆頭でしょう〝

2019年12月23日月曜日


コラム144<一番のなぐさめ ①>

 人はしばしば他人を励ます。
病に伏している者、精神的に弱っている者、心に苦しみや悲しみを抱いている者等々、さまざまである。だが身体の、特に気の弱っている人には、この励ましが時に辛くなる。がんばって!、病は気からって言うでしょ!、決して諦めちゃダメよ!、絶対に治ると信じてがんばるのよ!……。
一生涯のうちで人は他人をどれだけ励ますことだろう。この励ましで勇気と元気を与えられる人も多いだろう。
ジルボルト・テイラー(ハーバード大学で脳神経科学の専門家として活躍していた彼女は37才のある日、脳卒中に襲われる。幸い一命を取りとめたが、脳の機能は著しく損傷、言語中枢や運動感覚にも大きな影響が……。以後8年に及ぶリハビリを経て復活)は著書『奇跡の脳』の中で、このように記している。
〝彼ら(見舞いに来てくれた同僚達)の親切心が本当に嬉しかった。二人(母と自分)とも動揺していたようですが、私にプラスのエネルギーを与えてくれ、そしてこう言ってくれたのです。〟
〝「君はジルなんだからきっと治るに決まっている」って。完全に回復するというこの確信はお金には換えられないものでした。〟(P.125)

こういう人がいる一方で、私もそうした経験者の一人だと思うが、リハビリ以外、大して疲れるようなことをしている訳でもないのに、すでに身体内が頑張ってしまっていて、気力と体力の芯がグッタリ疲れている者もいる。そういう人には他人からの励ましがかえって重荷にさえなる。もうすでに限界に近い程がんばっているところに〝がんばって!〟と追いうちをかけられると、いかにこちらのことを思っての言葉だとは判っていても、さらに重荷となり、苛立ちの元となったりする。言われた分、判っている分、こちらの身体が思うように動かないからである。うつ病の人にがんばって!とは言わないように言われる理由が、今回はじめて理解できたような気がした。がんばって!と言われる前に他人にはそうは見えないだけで本人の脳はすでに相当がんばってしまっているのだ。
身体の弱っている人間には前から手を引いたり、うしろから背を押したりするよりも ただただ そばで自然体で寄り添っていてくれることが、どんなにかなぐさめとなり、静かな励ましとなることだろう。こんな風に感じられるようになったのも、この病のおかげである。さまざまな場面における人への接し方はむずかしいが、他人を励ましたり、元気づけようとする時、これからの私は、以前の私とは確実に違ってくるだろうと思う。励ましよりも、時に必要なのは、はるかになぐさめだと思われるからである。それもやっぱり本心の優しさなしには滲み出ぬものであり、これもやっぱり、4つの心(コラム143)のうちの最後、「底」の問題に行きつくのだろう。

2019年12月16日月曜日


コラム143 <人の心に4つあり>

 大分前のことであるが、あるTV番組で古い野仏だったかに刻まれていた言葉で、以来忘れられない言葉となった。
 そこには
   〝人の心に4つあり 裏と表と陰と底〟 
とあった。

あるいはひらがなだけであったかもしれない。
あの世に持っていけるものは心だけだと言われる。地位・財産・名誉・権威・権力……勿論お金などいくらあっても持っていけないぞ。そんなものに執着していたら荷が重過ぎて昇天できない原理なのだろう。

どんな人が、どんな思いで刻んだものだろう。あの世に持っていけるものは心だけ。その心の中でも美しい心根・やさしい心根 即ち上の4つでいえば心の底の部分に当たるところだけではないのか……私は最近そう思うようになった。
脳卒中ばかりでなく病に伏すと人は人の心のありように鋭敏となる。

美しい心根は平和の元()
死ぬまでの人生をかけて、そんな人間になりたいものだ。


2019年12月9日月曜日


コラム142 <最近の心境>

病状の恢復が捗々しくなく、これまでになく辛い日々を送っている。くよくよ悩んでいても仕方がないので、やれることはやろうと西洋医学と東洋医学の病院での治療とリハビリトレーニング、それに自分でできる自主トレを続けているが、脳神経の病は厄介だ。見舞ってくれた人に〝一歩ずつですよ。焦らずにね〟と励まされて〝それは私の昔からの得意技だ〟と取り組んでも到底そんな訳にはいかず、途中からこの一歩ずつを十分の一歩ずつと自分なりに読みかえて努力してきた。
 退院後、御主人が経験したのであろうか
 〝恢復は、薄皮一枚一枚はぐようにですからね〟
と言ってくれた人がいて、くれぐれも焦らず、苛立たず(そう思ってもしょっちゅう焦り、苛立っている)やれることをやって結果は天におまかせの気分で生きている。かつ
  〝諦めつつ 諦めない〟
これが生き抜くことだ、と自分に言いきかせている。
ところで、この諦めるは諦観の念などと使い、仏教の悟りの境地のひとつのように思っていたが、このアキラメルとは明らめる、即ち、事の真理を明らかにすることだとある仏教者の本に書いてあったのでなるほど!と合点し、脳出血のおかげでひとつ賢くなったと思った。
これまでの人生で、これ程長期間〝自分との闘い〟を試されたことはなかった。俗に四苦八苦という。元々仏教用語で人生における八つの苦しみ(人間のあらゆる苦しみ)を表現する言葉だという。
 四苦は御存知の通り 生(しょう)・老・病・死 の4つの苦しみ、これに愛別離苦(アイベツリク)・怨憎会苦(オンゾウエク)・求不得苦(グフトクク)・五陰盛苦(ゴオンジョウク)4つを足して八苦となるのである。私は仏教に詳しい者ではないからもっと深く知りたい人には自分で調べてもらうこととして、四苦の方は調べなくともだいたい判る。かねてよりこの中の生がすっきり理解できなかった。お釈迦さんはたしかに生む苦しみ、生まれ出る苦しみと説いたと言われ、確かにその通りだと判ったつもりでいたが、私の今の気分では生まれる意というよりも生きる意ではないか、 生きる そのことがすでに苦であると捉えた方がより自然に思える。この八つの苦しみの中に人間成長の糧が含まれていて、それを生かし得てこそ人生の意味も出てくるといえるのではないか。お坊さんの説教のような話になったが病は失わせるものも多いが、真理に気づかせてくれることも多い。


2019年12月2日月曜日


コラム141 <リハビリテーション病院へは一日も早く!の意味するところ>

一般には失われた身体感覚を回復するには一日も早くリハビリを始めた方がいいということであろうし、これに間違いはないだろうが、それとは別に私の感じたところを記しておこうと思う。
 リハビリテーション病院は病状に一段落ついた人がリハビリのために行く専門病院であるから、病院の役割が限定的な分、急性期の病院によりもはるかに人も院内のリズムもゆったりしていて、私にとってはそれが何よりもうれしいことであった。
 忙しい、慌しいとは 文字通り 心を亡ぼし、心が荒れる意であるが、その辺が大きく違って忙しいには違いないのだろうが、煩しさの度合いがゆるい分、看護師はじめ職員も一体に対応が親切で優しいものとなった。私にはこのことがリハビリテーション病院に一日も早く移った方がいいといわれる第一の理由であると感じられた。
 皆それぞれに大変には違いないが過度な苛立ちが少ない分、リハビリのトレーナー(セラピスト)や看護師さん達ともいい人間関係が築かれやすいと言える。長期の入院生活になる訳だから、これはとても大切なことだ。
 勿論、理学療法士や作業療法士としての、プロとしての技量の差も病院や人によってかなり大きいのではないかと思う。詳しくは知らないが、理学療法士(PT)とは歩く方のトレーニングが中心で、作業療法士(OT)とは日常生活上必要な作業、例えば着替えたり、トイレに行ったり、ボタンのかけはずし、タオルの折り畳み、上級になれば、入浴や料理などまで広がるが、主に腕や手、指のトレーニングが中心となっているようだ。マヒして動かぬ分どちらのリハビリも疲れるが、歩く方よりかえってOTのトレーニング後の方がぐったり疲れるのが最初の頃は不思議だったが、作業療法の方が脳神経をだいぶ余分に使うせいだとだんだん判ってきた。
 私の場合、歩く方よりも一層、肩・腕から指先までの動きの回復がさらに捗々しくなく、それに強烈なシビレが加わって、根気強いトレーニングを必要としていると感じる。

 こんな風になってみてはじめて痛感するが、指先での細やかな手作業などは、全く奇跡的なことに思われる。歩いたり走ったりその他普通に動けることがすでに大いなる恵みであり、これに才能と訓練が加わって人並以上に優れたものが作り出せるようになるとか、すぐれた能力を身につけるなどは、自力の世界でのことのように思われていたが、全く他力の世界の中での奇跡であると思うようになった。