2021年10月25日月曜日

 コラム240 <漢字に遊び、学ぶ>

  今日も漢字遊びをした。

  疑う病と書いて「癡」
   知る病と書いて「痴」
  そして二文字共におろかと読ませる。合わせて愚痴()

 以前にも書いたが、漢字遊びとは実に面白いものだ。




2021年10月18日月曜日

 コラム239 <病と向き合う>

  苦しい、苦しい、苦しい、苦しい、ああ苦しい、苦しい、苦しい、苦しい、苦しい、ああ苦しい、……。
これを10回繰り返し称えれば百遍となる。別に願掛けをしている訳ではない。
 実際私はそれをやってみた。息が続かないから苦しくなるだけでなく、それどころか途中からまるで地獄にいるような気分になってきた。日に三回で月約百回となる。
 百遍称えたが、苦しみはちっとも去らないことが判った。だから馬鹿らしいからもう止めた。それが連続的であろうと、断続的であろうと、溜息まじりであろうと、苦しいなんて言ってみたって、何の益にもならない。でも時には仕方がないね。

 
それでもそんな暇があったら、別の、もっと創造的なことをした方がいい。
   楽しいことを学び、実践し
   尊いことを学び、実践し
   偉人、賢人に学び、喜ばしい心持で日々を送る方がどれ程価値があることか。
   美しい音楽を聴き
   美しいものに触れ
   よき仲間達とよき縁を結び、ふれ合う、語り合う。
   〝人間であれ……〟

 という内なる声を聞いた。

2021年10月11日月曜日

 コラム238 <スマホ/ケータイの功罪>

  大分前のことだが、私があるところで講演を頼まれ、話している最中に最前列の一人が突然話し始めた。その頃はスマホなど無かったからケータイ電話である。さすがに司会者に注意されて廊下に出されたが、最近だって会議中に突然話し始めた者がいた。「○○さん!外へ!!」と私は一喝したが、あれは受けて話し始めると、まわりへの配慮を突然失うものらしい。
 昔なら〝この無礼者!〟で済んだが、時代が変わってあまり激しく注意したり、怒鳴ったりしなくなったから、こういう不届き者が絶えないのである。 

 どこにも持ち歩かないと、不安なのであろう。こうなると明らかに一種の病である。便所に入るにも連れ歩く。
 先日も高速道路のサービスエリア内のトイレブースの中から話し声が聞こえてきた。いくら便利とはいえ、用を足しながらしゃべることもあるまいに……。便所とは便利な所という意味ではなく、便をする所である。そんなことは言われなくとも判ってる?……だったらそうすればいいじゃないか!言われなくとも判っていることをしないから世の中がおかしくなるのだ。
 私だったら〝便所まで追いかけてくるんじゃない!〟と言って怒り出すだろう。別段相手が追いかけてきた訳でなく、持ち込んだこちらのせいなのだが……。始末の悪い話だ。

2021年10月4日月曜日

 コラム237 <リビングルームに、電話が7>

 来客が3人あれば、元々の固定電話と子機で2台、それに我々迎える側のスマホ/ケータイが2台、さらに今は来客各々がスマホを持っているから、3台がプラスされる。結果大して広くもないリビングルームに計7台の電話があることになる。
 金魚のウンコの如く、いつでも、どこでも付けて歩く。鳴るのは電話だけではない。メール、ライン、それに時々の宣伝音までがあちこちで鳴って、まあうるさいやら慌しいやらで、山中の静けさなど、一瞬にして消し飛ぶことになる。 

 元々私はFAXやケータイなど、便利とはいうものの結局人間の幸福に寄与しないようなものは、極力使わないようにしてきた。仕事場にも、しばらくはFAXなし。〝直筆の文を添えて、クリアーなコピーを郵便でゆっくり送れば十分じゃないか!〟で通してきたが、確認申請などの役所とのやりとりは電話ではダメとなり、やむなくFAXを入れることになった。 

 まずここがやられた。ダムの決壊と同じで、一部が崩れると、まあ人間の弱さというものか、うまく使いさえすれば……などと言って始まったものが、まもなく総崩れを起こすことになる。人間として何か大きなものを失っていくとも知らずに……。 

 最後まで持ちこたえたのが私自身のケータイである。
 脳出血で倒れ入院して以来、コロナウィルス禍も重なり外部との通信手段を失ったから、ケータイを持たざるを得なくなったのである。掛ける/受ける、の機能だけしか私は必要としないから、未だにガラケーで十分である。ガラケーでもメールは使えるのだが、気が滅入るといって私は使わない。それに持ち歩かない。特に身体がこうなってからは一人で出掛けることも少ないから、必要な時は人のものを拝借すればいい。そんな身勝手な!という者もいるが、どうせあるのだ。使えるものは使えばいい。なんでガラケーと呼ぶのかさえ私は知らない。そんな余計なことは知らなくていいのだ。 

 そして今は冒頭にあげたような有様である。スタッフを見ても製図版に向かうこと少なく、パソコンと向き合っている時間が圧倒的に長くなった。患者の顔を見ずにパソコンに向き合っている医師のことなど、とても責められない。