2020年10月26日月曜日


 コラム188 <上から目線①>

  角の立つ言い方というものがある。音が出る訳ではないが、カチンと来る態度がある。簡単に言えば 〝この野郎!〟という感情を引き出してしまう言葉・態度である。    

 辞書で引く言葉の意味からではない。語調、目つき、言葉にのせる感情、表情で、角が立ち、カチンと来るのである。

  礼節などという言葉は、今あまり使われなくなったが、これが大切であると言われるのは言葉そのもの以上に人間関係をよくしていく上に必要とされるものが多々あるからである。「慇懃(いんぎん)無礼」という言葉もあるから、礼節は形式的なことではなく、心にしっかり浸み込ませておく必要がある。

  私の仕事場である<住まい塾>では、一人間として、一仕事人として、あるべきようにあり得ていない時には、年令や先輩・後輩に関係なく、それぞれ率直に指摘し合おうということになっているが、どれ程真剣になされているか、私は心配だ。その前提には素直な心が必要だからである。

  職人達から時々この〝上から目線〟を指摘されるスタッフがいる。本人にその気が無くとも、そう感じさせるのだから何かがあるのだ。当の本人は、驕(おご)り、昂(たか)ぶり、上から目線など大嫌いな人間なのにである。長年つき合ってきた私から見ても、まちがいなく いいやつ なのにである。

 ちょっとしたことなのだ。言葉に乗ってしまうニュアンス・語調がそうさせる時もある。ちょっとした目つきや表情が関係する時もある。人によっては無いものが出る訳がないのだから、心のどこかに問題があるのだよ、と厳しい指摘をする者もいる。まわりにはこの原因が割とよく判る。しかし、本人にだけはそれがどういうことなのか判らないのである。〝自分のことは自分が一番よく知っている〟とよく言われるがこうしてみると〝自分のことを一番知らないのは自分自身である〟とも言えるのである。




2020年10月19日月曜日

 

コラム187 <カジノとトバク———その②>


  カジノといっても、公認の巨大トバク(賭博)場に違いはありません。それ故、いかなる経済効果があろうとも日本はカジノ施設は作らないと世界に向けて宣言したなら、さぞかし潔い国として賞賛を浴びるに違いありません。賞賛など浴びなくても日本人として気分がいいではありませんか。歴(れっき)とした賭博罪のある国なのですから、誘致する側にも、やる側にもどこかうしろめたさがあるはずなのです。(感覚がマヒして、そんなもの疾(と)うに無いのかな……)

 私は、安倍首相(もうお辞めになってしまったが)以下、日本の政治家たちにお聞きしたい。昔から取り締まってきたトバクも国の名の元でなら大っぴらにやっていいという理由はどこにあるのですか?単なる大型のマネーゲームに終わらずに、麻薬から足が抜けなくなるような人々の悲劇がきっと生まれてくるでしょう。

 〝ラスベガスはじめ、他国でもやっている……だからいいだろう〟というのは民族としての精神的誇りを失った人間の使う言葉です。他国が持っているからいいだろうなんて論理は全く成立しないのです。

 原発問題にしろ、このカジノ問題にしろ、巨大な渦の底に巻き込まれてしまっている暗い想念が想定外の暴発をしないうちに、青空を垣間見(かいまみ)ることができるように……と日本人として心から願っています。キョロキョロ、チョロチョロ政治家だけでなく、気骨ある勇敢な政治家が一人位いないもんですかねえ。



2020年10月12日月曜日

 コラム186 <カジノとトバク———その①>

 

 カジノとはイタリア語のcasino:シチリア島で結成された秘密結社が起源と言われる。(『辞林21』より)

  カジノといえば、西洋式にスマートに聞こえるが日本語でいえばトバク(賭博)場である。時代劇やヤクザ映画などでしばしば見かけるサイコロでの〝さあ、はったはった、丁(ちょう)半(はん)〟がルーレットやカード、ダイスなどになっただけのことである。このカジノの日本への誘致が取り沙汰されているが、私にはこれが不思議に思われる。

 これまで長く取り締まってきた側の国が、率先して国をあげて大がかりな賭博場をつくろうとしているのである。トバクも大きくなり過ぎると人間の目に余り、罪としてきたことも娯楽のひとつに見えてくるのだろうか。今でもりっぱに「賭博罪」というものが存在するのに、である。(野球賭博などは我々のよく知るところである)

  私は国を代表する首相が〝日本は長い歴史の中で賭博を良しとした時代を一度も持ったことがありません。ラスベガスがどうあろうとも、他国がどうであろうとも、賭博をよしとする精紳土壌は日本の歴史には無い〟と世界に向けて宣言したら、日本人はどれほど爽快な気分を味わうことだろう。この巨大になった資本主義社会の中で、何をたわけたことを!と言う人間がいてもいいではないか。潮流に巻き込まれていくばかりでなく、独自の国のありようをしっかり持った国になってほしいものである。

2020年10月5日月曜日

 コラム185 <成功>

 夢の中で誰かと〝成功〟について語っている。内容を思い出しながら書く。

  〝今の時代は志薄く、中途半端に成功だけを求める者達だらけになったから、自然世の中つまらなくなるよ。成功を願うのは勝手だけれど、だいたいは思い通りにはいかないのが昔からの相場ときている。

 因みに「成功」とは、私は人間としての完成に人生をかけて近づくことだと思っているが、こういう価値観も今の時代は全く希薄だ。こんな経済社会になっては致し方ないとも思うが、経済即ち金の面でうまくいけば、それが成功なのだ。何と大きな見当違いをしてしまったものか。

 失敗にめげずに立ち上がり、鍛えられて、おもしろい人間が出来上っていくんじゃありませんか。面白い人間を見ていると、だいたいそういう経験の積み重ねの上にできているよ。成功尽くめなんて無いっていうか、仮にあったとしてもいいことでも何でもないんだ……〟

  〝かつては〝苦労は金を出してでも買え〟なんて言われたものだけれども、あれは人間づくりのために言われたものでしょう?今は、金出して苦労を捨てるような考えの人間ばかりになっているんじゃない?金出して苦労を買うバカがどこにいるか!なんて言われかねない。そんなことで味わいのある、厚みのある人間が出来上がっていく訳が無いんだ。もんじゃ焼きみたいな薄っぺらな人間しかできて行かないんじゃないか?……〟

 こんな話をしている。語り相手が誰であったかははっきりしない。