2017年3月27日月曜日

コラム 82  室温15度生活の試み その②  

晴れた日には極力外のテーブルで過ごす。読書・スケッチ・原稿書き・等々。太陽があって風さえなければ、外気温がマイナス5度あたりでもそんなに寒いことはない。石油消費の節約にもなるし、照明等電力消費の軽減にもつながる。
それに太陽を浴びているのだから、健康にもいい。そんなことしたって何の役にも立ちぁしない、バカなことをするものだ、という人もいるだろうが、このバカをみんなやったら、原発の存在根拠はひとまず無くなる。 

〝原子力の平和利用〟としばしば言われるけれど、原子力そのものが巨大な危険を孕んでいるのだからこの言い方はヘンだ。残り滓の問題ひとつ取っても全く片付かないではないか。
政治や金がらみの問題はともかく、どう考えたって我々のエネルギー大量浪費生活をこのまま続けて〝原発反対〟は成立しないことだけははっきりしている。 

第一、地震や津波だけでなく、この無防備な日本の原発基地にミサイルでもぶち込まれたら、どうするのだろう。比較的良識がありそうに見えるアメリカですら、試験的に広島・長崎に原爆を落とした位なのだから・・・・・。 

 いかに〝原発反対〟と叫んでみても、虚弱になったこの体質をそのままに具体的にどうするつもりなのか?冷房にしろ暖房にしろ、我々はすでに大量のエネルギーを必要とする身体になってしまっている・・・・・ 


 私の室温15度生活の試みを、ここにまとめておこう。
    室温15度、階下の書斎は10度設定。
  15度で寒い時は10度の書斎で30分程本でも読んで戻ってくる ・・・・・ それでも寒けりゃ、マイナス10度前後の外に出る。戻った時の室温15度の暖かさ!!
    晴れた日には、極力外で生活する。
    冬用衣類(厚手のソックス、カーディガン、襟巻き、レッグウォーマー、ヒザカケ等)
の準備を怠り無く。
    水道管の凍結防止用ヒーターで温まった水の有効利用 ―― すばやく洗う。
    暖房便座のつけっ放しは止める。マイナス1020度になる山中でも便座カバーで十分。困ることなし。(体験済み)
※カバーがイヤな人は数分前に座って本でも読むこと 

こんなバカな生活はやめた方がいい? 

しかしながら私の室温15度生活への挑戦は、まだまだ続く。

2017年3月20日月曜日

コラム 81  室温15度生活の試み その①  

エネルギーを好き放題に使って
原発反対でもないんじゃないの?
取り返しのつかない怖ろしいことは止めた方がいい。
そんなことになるよりは、我慢した方がいいに決まっている。 

地球をも滅ぼしかねない原発に対する私の試みは単純だ。
稼動したとして全発電量に占める原発依存度は30%弱なのだそうだ。その原発を無くしたら火力発電への依存度が増して、電気代も上がるという。ならば電気使用量を30%減らしてやろうじゃないか!
電気使用量を30%減らすことなど訳はない。我々は日常生活の中でやたらに電気を浪費しているのだから・・・・・。 

さて消費ウェイトの大きい冷暖房のつけ過ぎ、やり過ぎについてだが、私の山の生活拠点は八ヶ岳の標高1600メートル付近にあるから、夏季冷房に頼る必要はない。だからエアコンも無い。逆に暖房は真夏の八月でも欲しい日がある位だから、こちらの問題が大きい。暖炉もあるにはあるが、枯木、枯枝、間伐材を燃やして楽しんでいる程度のものであって、メインは石油系クリーンヒーターだ。この灯油の消費量も30%減らしてやろうというのである。 


まず、これまでの室温20度生活を改めようと思い立った。原発電気と灯油とどう関係するんだと言われそうだが、この心意気が大事なところだ。20度を30%減らすというのなら、きりのいいところで15度か・・・・・こうした発想は電気だろうと灯油だろうと同じである。
この試みによって冬期の暖房用灯油の消費量はほぼ半分に減った。時々寒く感じる日もあって18度にしたり、訪ねて来た人が防寒着を脱ごうともしないから、そんな時はスペシャルサービスとして20度にしたりすることもあるが、全体からすればあくまでも例外措置である。 

室温15度生活を貫徹するには以下のものが要る。
    ・厚手のクツ下
 ・カーディガン
    ・襟巻き
それに ・レッグウォマー でもあれば十二分だ。 

このように室温20度生活を15度生活に改めれば、灯油の使用量は半分になると知っても、実践しようとする人は殆どいないだろう。エコ生活の第一の心掛けは、エネルギー消費を減らすことにあるというのに・・・・・。どうしようというのだろう。こうして原発反対!は、いつまでも現実味を帯びないのである。

2017年3月13日月曜日

コラム 80  朝の啓示  

〝贅沢ではなく
美しい食事をしよう
それが最高の贅沢というものだ〟 


西の空は夕陽に焼けるものとばかり思っていた。しかし早朝太陽が東の山から登り始める頃、西の空も焼け始める。
淡い色だ。しだいにピンクとブルーの二層のパステルカラーとなって一面に拡がる。そんな様子を見つめている内に、上記の言葉が突然浮かんだ。
何の脈絡もない。こんな時の言葉はもう啓示に近い。

2017年3月6日月曜日

コラム 79  冬の夕陽  

突然暖炉の前のコーヒーに一筋の西陽が差し込んだ。
一瞬、私はこの光景をまじまじと眺めた。
ゆらゆらと揺れながら立ち登る湯気と芳香―オレンジ色に輝く掌の肌・・・・・これまで幾度となく繰り返されてきた光景であろうに、発見しなかった自分を恥じた。 

鈍欲、鈍感になった人間に発見されないままの美が、この世には限りなくある。
燃え上がる暖炉の炎
パチパチと爆()ぜる薪の音
じっと見つめていると、それはまるでマグマの中心のようだ。
日ごとに変わる沈む太陽の紅色・・・・・
天が与える恵みを、人間が欲望と引き替えに失い続けていく。
ウディショーの哀し気なラッパが響く。ヴィニシウス・カントゥアリアの哀愁の声・・・・・ 

夕陽が差し込む窓辺で音楽を聴きながら本を読む。夕焼にページが染まる。私は本来の落ち着きを取り戻し、やがて夕陽と一体になる。この時間帯が私はとても好きだ。
だが夕刻の陽は刻々と沈んでゆく。落葉松と白樺の樹間にキラキラと輝き始める里の街灯り。 

あの日から私は、ひとつのもの、ひとつの現象、ひとつの表情をよく見つめるようになった。一冊の本、一羽の小鳥、一粒の星の輝き、ひとつひとつの食材の命・・・・・。そして気づかされた。これまでいかに多くの美を見落としてきたかを・・・・・。
黄昏(たそがれ)時の静寂なる時間・・・・・。
西の空が焼け、陽が沈むまでの、対立も闘いも、不安も苛立ちも無い平和な時間。 

暮れなずむ夕陽は格別に味わい深いものだ。南アルプスの稜線がくっきりと浮かび始める頃、ふと手元がこんなにも暗くなっていることに気づき、まだ本が読めていることが不思議に思われた。一番星が輝き、やがて幾百万の悲しみの痕跡ででもあるかのような星達が夜空を飾る。